【長万部町出身者インタビュー】村松修平「どうせやるなら最高の指導者のもとで、効率的に勉強したかった」

投稿者: remanbe

remanbe(リマンベ)は、デジタル時代の地方創生のモデルをつくりあげる、北海道長万部(おしゃまんべ)町のローカルメディアです。


この記事は、はてなブログにて2014年5月より掲載していた「リマンベのシゴト論」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。中高生のお子さんをもつ保護者の方、長万部の学校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい内容となっています。

「リマンベの仕事論。」の全記事を見る

【プロフィール】
村松修平
1988年生まれ。いずみ保育園を経て、長万部小学校、長万部中学校へ進学。高校からは地元を離れ、陸上競技の名門、札幌国際情報へ進学。1浪の後、慶應義塾大学に進学。在学中には英エジンバラ大での1年間の留学を経験。同大を卒業後、東京の大手総合商社に勤務。

1.高校時代「伸び悩む部活の成績。信じることができなかった部活の顧問」

Track & Field Competition @ National Olympic Stadium @ Sendagaya
Track & Field Competition @ National Olympic Stadium @ Sendagaya / *_*

品田直宏という世界ジュニア優勝者(※)をみて、ここにしようって決めました。

※品田直宏(札国際情報高)カナダ世界ユース大会走幅跳優勝(7m87)。

その高校は北海道で一番の顧問が在籍されていて、国体の北海道ナンバーワン選手を育てているような凄い指導者がいるところです。…でも、当時は全然信じてませんでした。中学時代の陸上の顧問(愛称「イトケン」)を、とても信じてたんですね。

イトケンからは、練習メニューについてはとくにいわれてなくて。精神論でやるというか。だから、いつも自己流でやっていました。(飛び方、走り方等の)技術的なことは自分で調べて練習していました。

そのようなこともあり、高校の顧問の指導方法に対して「これをやって何の意味があるの?」や「これ意味ないな」「その練習、めんどうだな」と思う日々で。練習方法がイヤで、飛び方について色々と指導されたんですが、自分なりのやり方を変えたくなかったという気持ちがありました。

それでも一応全部こなしたんです。言われたことは全部やったけど…熱が入ってなかったんでしょうね。結果として成績が伸びなく、目標だったインターハイには行けませんでした。一方、顧問の指導方法を信じてやってた人は、皆、インターハイでメダルを獲っていたんです。高校から陸上を始めたにも関わらず、インターハイ優勝という実績を残した一つ下の後輩がいるくらい。

そこで確信しました。信じてやることの大切さを。「じぶんなりの戦い方」っていうんですかね。高校時代、インターハイに行けないと確定した時、顧問にこう言われたんです。「陸上で負けたんなら、人生で勝ち組になれ」。そのとき、自分は人生の勝ち組といったら「ビジネス」くらいしか浮かばなかったので、「ビジネスで1番になろう」と決めました。

2.大学受験もう一度、最高の指導者のもとで。

大学受験では、筑波大学の体育学科や、早稲田大学のスポーツ科学、あとは慶應義塾大学などを受けました。…でも、全て落ちてしまいました。だけど、最後の最後のというところで、青山学院大学は合格したんです。

青学の合格発表のとき、母親は大喜びでした。しかし、父は違っていて。「慶應の進学先」「青学の進学先」を印刷した紙を、無言で僕に差し出してきたんです。

「これを見て考えなさい」ということなんだな、と汲み取りました。

父はいつも僕に向かって「やるならナンバーワンを目指せ。サッカーならW杯、陸上ならオリンピック。勉強なら東大早慶だ!」と言っていました。つまり、「慶應に行ってほしいんだな。且つ浪人してもいいんだな」ということだったんです。

じゃあやってやろうじゃないか。「私大ナンバーワン」を目指してやる。そこで決意しました。それからは、東京で浪人生活を過ごすことにしました。高校時代は札幌に住んでいたので、普通は札幌のまま浪人生活を過ごすと思うんですが、勉学に集中できるよう友達がいない環境、最高に信じれられる塾講師のところで勉強したいので。

どうせやるなら最高の指導者のもとで、効率的に勉強したかった。陸上で学んだ、「信じること」ですね。最高の指導者を信じて、学ぼうと決めました。

3.浪人生活「最高の指導方法を信じてやった」

KOKUYO のツインリングノート
KOKUYO のツインリングノート / yto

最高の塾講師がいるゼミで、この方法で行くと決めてやりました。すると、夏にグッと偏差値が上がったんです。この方法で合ってたんだなと分かったので、その方法をストイックに続けました。浪人期間は人間らしくなかったかな笑。偏差値しか喜びがなくて。会話は3日に1度くらい。当時の友達は2人。どちらも浪人生という具合です。

僕は人と比べて、記憶力がなかったので、ひたすら頑張るしかありませんでした。1日に12時間の勉強を、毎日休まず続けました。朝7時半に起きて、9時から19時まで予備校で勉強。19時半に自宅に着いて。22時までご飯と入浴、あと筋トレ。22時から24時は、英語です。予備校でつかった長文を声に出して読み上げてました。

いざ就職して分かることなんですが、社会人になると人間力が問われるんですよね。そういうのを犠牲にして偏差値をおってたのはないな、と思いつつ、じぶんは不器用な人間だったから、あれしかなかったですね。

後悔はしていません。目標は達成できたので。その無理があったらから、いまがあるんです。就職活動も頑張れましたし。あれで落ちても後悔しなかったくらい勉強してました。参考書がぐっしゃぐしゃになるまで、徹底的にやりました。

ーーーそして、念願の慶応大に村松氏は合格した。

4.慶応義塾大学生活「日本トップレベルの頭脳に勝つには」

大学に入ってから陸上はムリだと思っていました。それで、何をしようと考えていたとき、高校の顧問に言われた「陸上で負けたなら、人生の勝ち組になれ」という言葉があったので、「陸上でダメなら、ビジネスしかない」と思い浮かび、経営と会計、金融を学ぶ研究会へ入ることとしました。

そこでは毎日みんなでビジネスアイデアを考えてたり、フレームワークやディスカッション、ファシリテーションなどを勉強していましたが、その研究会のメンバーは皆、かなり頭が良くて本当に驚きました。株をやってるし、ビジネスの本を読んでるし。国語算数地理社会とか、そんなレベルじゃないんです。いきなり住む世界が違うところに来たな、と思いました。この人たちにじゃ勝てないなと。

それで、彼らにはない「別の強み」が欲しくて考えてみました。すると、「彼らは頭は良いけど、グローバル(な人材)ではない」ということに気づいて。だから、自分は英語を極めてグローバル人材になろうと、英語をやろうと決めました。彼らに負けない英語を。そこから、ひらすら英語を学ぶことにしました。

大学1年の7月頃には、思い立って短期留学に申し込むことにしたんです。募集の1週間前でした。3歳からこつこつ貯金をしていたお年玉をつかって、カナダで1ヶ月の海外生活を過ごしました。

5.海外留学「次元が違う世界トップレベルの頭脳」

カナダの語学学校での経験

1ヶ月、カナダに留学しました。語学学校の生徒の2~3割が日本人と多くて、何度か誘われることがあったんですが、日本語で話しかけられても「英語」で返してました。無愛想に断わりつづけてましたね。

なぜかストイックになってましたよ。日本人とは絡まず、ずっと同じ語学学校に通っていた韓国人と一緒にいました。一ヶ月間、英語しか使わない経験が大きかったですね。帰国後にTOEICを受けてみたら、スコアは670から850に上がりました。それで、英語はまだまだ喋ることはできないけど、「まあまあ英語はできたな」「馴れることができたな」と思いました。

ケンブリッジ大学でのサマースクールの経験

大学2年の8月には、ケンブリッジに行ったんですが、さらにビックリしました。世界トップレベルの大学とあって、頭の良さは慶応大とは比べものになりませんでしたね。歴史学を専攻してるのに、司法試験を合格してるような強者がいるんです。22歳くらいの年齢で、ですよ。他には「俺はNASAで働こうと思ってるんだ」ということを普通に話すような次元の。

「これが世界か、これはどう考えても勝てないな」と思いましたね。授業での議論のスタイルにも衝撃を受けました。深いんです。意見が深い。話がうまい。表現が上手。歴史を専攻している学生がいたんですが、様々な観点から意見を言うんです。「ヒストリーの観点では…、ポリティカルでは…、エコノミーでは…」というように。

自分が専攻としているマーケティングについての知識も豊富で、自分の専門内でも負けるんです。「マジ、ムリ」ですよ。声の大きさでも勝てませんでしたね。

この世界トップレベルの環境にいて、こう考えるようになったんです。「彼らに勝たないまでも、彼らみたいな力が欲しい。彼らと同じ環境にいよう、近づこう、学ぼう」と。そういうきっかけがあり、1年間エジンバラ大学に留学することにしました。

エジンバラ大学での経験

Old College Quadrangle, Edinburgh University
Old College Quadrangle, Edinburgh University / dun_deagh

ケンブリッジのときはは日本人向けにアレンジされた講義だったんですが、エジンバラではエジンバラ向けの講義です。講師からフラットな立場で教わるんですが、何と言ってるのか全然分からないし、早いんです。

しかも世界ランク16位の大学とあって、脳みそが違いました。だから、「俺が発言したところで議論が発展しないのでは?喋るスピードが遅いからリズムを止めてしまうのでは?」と躊躇することもありました。

でも、せっかく留学したのに何にも喋らないでいっても意味はなく、「なにしにきたの?」となります。慶應で決めた「グローバル人材」になるために、何か発揮しようと考えました。脳みそで勝てないなら、みんなが知らないこと発言しようと、日本のビジネスのケースを紹介をすることにしました。「教科書にはこのように書いてるけど、実際はトヨタではーーー」というようにです。

自分にしか出せないこと、論破とかはできないけど、アイデアを提供するとか、見方ですね。これなら俺でも違いが出せるなと思いました。今いる環境のなかでどう勝つか、どう違いを出していくかを考えた結果です。

6.これまでの経歴を振り返って

慶應のときもそうでしたが、「正面突破で勝てないなら、俺はこういく」と考えるようにしてましたね。同じ土俵では勝てないけど、この土俵なら勝てる、というものを。

勝てる土俵ってどこだろうって、常に問題意識をもってました。「どうしようどうしよう」って。すると、何かのきっかけでポーンと解決策を浮かぶんです。分かんなくてもいいから、クエスチョンを持つことですよね。悩んでないこと自体が、問題なのかもしれませんね。悩むことも、いいんじゃないでしょうか。

慶應で頭のいい連中に出会って、そこで違いを見つけようとして「英語」に出会ってからは本当に変わりました。最終的に世界から会社を選べるくらい、選択肢が広がったんです。

自分よりも強いやつらばかりの環境にいたら、自分のなかの常識が一つ上に上がっていくんです。一つ上に行くと、視界がバっと広がって、そしてまた何か勝てる方法を見つけて頑張ってまた一つ上へ。やりたいことが決まっているなら、その専門を極めるのもいいけど、やりたいことが決まってないなら、いい大学に入れば、機会は広がります。

自分は、いろんな人から言われた言葉を、よく覚えているんです。

中学の部活の顧問イトケンから「絶対言い訳すんな」
中学の国語教師からは「簡単な道と厳しい道で迷ったら、厳しい道をいけ」
高校の部活顧問からは「陸上で負けたんなら、人生で勝ち組になれ」
母からは「自分に厳しく、人には優しく」
そして、父からは「どうせやるなら1番になれ」

いま振り返ってみたら、ちゃんとこれらのことを守ってこれたから、いまの自分があるんだなと思いました。どれもシンプルな言葉ですけど、今となれば深さが分かりますね。

ーーー長万部の学生へのメッセージです。「10代のうちにやっておいたほうがいいこと」はありますか?
うーん、…なんだろう。「外に出てほしい」かな。

ーーー自分の殻、限界、常識、世界観のあらゆる「外」へ。成長するために、向上するために、あらゆる「外」へ。いつも自分よりも強い人たちがいる環境へ立ち向かった。その中で違いを出して「勝てる方法」を探してきた。自分を外へ。成長するために「外」へ。村松氏は、シンプルにこう言っていた。

▼この記事がよかったらいいね!