「おしゃカワイイ」の次は「おしゃスタイル」へ。長万部町出身の気鋭のパーソナルスタイリストによる「OSHA STYLE」が切り拓く、ファッションの新しい未来とは


過去にリマンベのシゴト論。にも取り上げた長万部町出身の武澤未歩さんが、パーソナルスタイリストとして「OSHA(オシャ)」を立ち上げました。

OSHA公式ウェブサイト:http://www.oshastyle.com/

・【長万部町出身者インタビュー】アパレル 武澤 光歩 「夢中のままで突き進んでほしいです。気持ちのままに。ゴールへ向かって。」

サービスのメニューは2つ。パーソナルスタイリストによる「ショッピングアテンド」と呼ばれる買い物同行と、手元の洋服からコーディネートを提案してくれもらえる「ワードローブチェック」です。

スタイリング例
スタイリング例

オシャレだなと感じる人は、きっと自分が欲しいものから似合うものを選んで”自分らしさ”のこだわりを持っている人。

もともとのセンスの違いはあっても、なりたい自分になろうとすることで人はキラキラし輝いていきます。

OSHAはそんな一人一人の希望の種を最大限に咲かせるため、好みやお悩み・ライフスタイルに沿ったご提案でお客様がワクワクする毎日へのお手伝いをさせていただきます。

出典:http://www.oshastyle.com/

芸能人のものだけでないパーソナルスタイリングを

『OSHA STYLE』を立ち上げた背景について、武澤未歩さんは、

「スタイリストは芸能人や富裕層だけの職業ではなく、誰しもが気軽にビフォーアフターの感動を体験していただきたいという思いから生まれました」と、ファッションのスタイリングの開口を広げていきたいという想いをもって始められたそうです。

また、女性には嬉しいメイクアップやヘアアレンジのサービスも無料とのこと。美容院へ行く感覚で、利用されてみてはいかがでしょうか。

出身地と絡めたサービス名

武澤光歩さんは、「リマンベのシゴト論。」のインタビューでは、次のように語っているのが印象的でした。

東京にきて思うことは、長万部って美味しいものがたくさんあるってこと。こだわった味もあるし。美味しくて超安い。いつかどんな形でも良いので紹介したいです。テレビとかで取り上げられるときにも、「ここは誰々の出身地です」というふうにしたい。ホント、長万部にはどんだけ助けられたら分からないですよ。ささやかでも、その分はお返ししたいです。

出典:【長万部町出身者インタビュー】アパレル 武澤 光歩 「夢中のままで突き進んでほしいです。気持ちのままに。ゴールへ向かって。」

長万部出身者として、そして日本を牽引するパーソナルスタイリストとして、さらなる活躍に期待です。

【長万部町出身者インタビュー】金谷圭一郎(かにめし本舗かなや代表)「1人で熱く主張しても、皆に伝わらなければ力が結 束できず『力』に変わらないんですよ」


この記事は、はてなブログにて2014年5月より連載していた「リマンベのシゴト論」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。中高生のお子さんをもつ親世代の方、そして長万部の中学・高校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい内容となっています。

気に入ったものがあれば、ご友人へシェアしていただければ幸いです。

> 「リマンベの仕事論。」の全記事を見る

【プロフィール】
金谷圭一郎
昭和48年12月20日生まれ。マリア幼稚園、長万部小学校、長万部中学校を経て東海大学第四高等学校、東海大学湘南校舎土木工学部に進学。大学卒業後は、神奈川県茅ヶ崎市の亀井工業株式会社に入社。平成23年7月よりかにめし本舗かなや代表取締役を務める。

【かにめし本舗かなやとは】

かにめし本舗かなや(かにめしほんぽかなや)は、長万部駅に拠点を置く駅弁調製・レストラン・ドライブイン・佃煮製造業者。札幌市にも支店を持つ。長万部町内で旅館営業をしていた時代の弁当事業を含むと昭和以前になってしまうことから、長万部駅構内販売を始めた昭和3年を創業年としているとのこと。

「最後の無頼派」作家・文士ともいわれた檀一雄のエッセイ「美食放浪記」の中でも、長万部の車窓から買って喰った毛蟹も、おいしくて、ひろげた新聞の上いっぱいにひろがるその殻の堆積の有様を眺めながら、いかにも喰ったと云う幸福感を味わったものである。
と長万部駅の煮蟹が絶賛されている。

ーーかなやさんにはお客さんはどういう方が訪れますか?
町外のお客様が「長万部を通るのでせっかくだから・・・」と立ち寄ってくださるのが多いです。また町内の方もお出かけの手土産、または来客のおもてなし等に利用してくださいます。年代はやはり30代以上が多いです。「親が好きだった・・・!昔、修学旅行で食べた・・・!」などと懐かしさを求めて来られますね。

若い世代ではネットで調べて立ち寄られる方も見られます。キッカケになったのは弊社ショッピングサイトで販売している「かなやのかにめし(冷凍)」を購入してくださった方が、本物を食べてみたいと思われ、旅のついで・あるいはデパート催事先に来てくださり食べ比べてくださったようです。感想まではお聞きしてませんが結構頻繁にご連絡をいただくお客様もいらっしゃいます。

ーーお休みの日は何をされてますか?
あまり休んでないのでわかりません。何か用事があるから会社に行かないことはありますが、基本プライベートと仕事の区切りはありません。

ーー現在の長万部は、Noirの寛さんや木村店長を筆頭に、30代の方の活躍がとても目覚ましいものですが、この点について考えを聞かせていただけないでしょうか?
寛ちゃんも充くんもキャラクター的に魅力のある方です。うらやましいですね!

当然、彼たちの活躍は刺激になってます。この二人も町外で活躍されたのちに地元に戻って頑張っている二人です。ある意味私も同じですので心中を察する部分もありますね!同性の自分から見ても素敵な二人ですよ!

ーー「町外での仕事」を体験していることとしていないことの違いを長万部での生活において感じることはありますか?
うまく言えませんが、「この町には答えが既に用意されてる・・・」こんな感じでしょうか。「決め付けが強い・・・」。表現が難しいですね。

別にどっちが正しいという事はないんですよ。「優しさ」と「甘やかし」、「気配り(言われる前に動く)」と「ご機嫌とり(言われてから動く)」を勘違いしている人が多いなぁ・・・とも思いましたね。なかなか言葉で説明するのは難しいです。

ーーお仕事での「失敗体験」「成功体験」を教えてください。

失敗体験について

失敗体験については、あり過ぎてわかりません。「失敗」を失敗のままにしておかないことを心がけています。なので、正直失敗は沢山してますが、「失敗」と記憶しているものはあまり無いですね。毎朝4~6時に心臓のバクつく音で目を覚まし、落ち込む日々が約10年間毎日続きましたけどね。

自分に何かを言い聞かせて、奮い立たせて、布団を出るんです。「仕方ねぇ!」という割り切りで。そうしないと会社にも行けないし、誰とも会えないんですよね。正面から失敗を受け止めて、認めて、1つずつ解決していくことでその失敗は解消されると思います。それでも失敗したら「ごめんなさい」ですよ!

成功体験について

成功体験については、「成功」という表現になるのかわかりませんが、良かったと思っていることを書かせてもらいます。「逃げないで良かった・・・」と思っています。長万部に帰ってきて今年で12年。親元を離れて曲がりなりにも自分の考え・判断で16歳から28歳まで生きてきて、多少の「経験と自信」を身につけて帰って来ました。

ですが、積み重ねたものを自ら封印しなければならない、目一杯アクセルを踏みたいけどブレーキを踏まなければいけない。そう思ってしまいました。封印したのは今まで私が普通に判断していた「基準」だったり「時間の使い方」だったり、立ちはだかったのは父親などなど。

今まで出会った方々から学んだこと、いろんな状況に遭遇したことから学んだ経験をもって「故郷に新しい風を!」みたいに思ってましたが、この町では通じない、聞き入れてくれないと感じました。見えない壁が立ちはだかってるんです。

「ココでは○○だから!」。

なぜ、変えたいと思ってるのに、変えようと動かないんだろう?なぜ、新しいモノを否定するんだろう?(表面は相槌をうってても、陰で否定するのは何故?正面切って否定しないのは何故?)なぜ、行動のまえに顔色伺いをするんだろう?

以前の職場で一緒に働いていた同僚たちとどんどん差が広がっていくのではないか?という不安でいっぱいでしたね。

そんな時に父親に言われた言葉が「まずは、皆を知れ!」でした。

勿論、反発しましたよ。何で俺が知らなきゃならないんだ!時間がもったいない!自分のやる気にブレーキをかけられる毎日に諦め、失望を繰り返しました。

父は10年前に他界しましたが、今は何となくその言葉の意味が理解できます。「伝える」難しさに直面したときにわかりましたね。1人で熱く主張しても、皆に伝わらなければ力が結束できず「力」に変わらないんですよね。今は10年以上の付き合いの中で、だいぶクセもわかってきて、どう言えばこの人に伝わるのかが以前よりはわかってきました。父親の言った「皆を知れ」は、つまり「皆に歩み寄れ」ということだったんですね、きっと…。

思った通りにいかない現実、封印した自分の考えとアクセル!嫌気をさしてこの町から出て行こうと何度も思いましたが、逃げずに頑張ったら12年経って何となく手応えを感じるようになってきました。自分自身の中に「逃げなかった自信」が「土台」としてできたと思います。「成功」と感じたことはありませんが、封印を解き、アクセルを踏むのはこれからです!

ーー長万部の若者へメッセージをお願いします。
実際には凄く難しいことだけど、夢は持ち続けたいと思っています。できない事の理由を探して自分を抑え込むくらいなら、できる可能性を探すほうが俺は楽しいと思っています。どうせ生きるなら胸を張って生きて行きましょうよ、みなさん!

【長万部町出身者インタビュー】種田敦「外に出て、広い世界を見てほしい」


この記事は、はてなブログにて2014年5月より連載していた「リマンベのシゴト論」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。中高生のお子さんをもつ親世代の方、そして長万部の中学・高校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい内容となっています。

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【プロフィール】
種田敦
1988年生まれ。静狩保育園、静狩小学校、長万部中学校、長万部高校出身。東京理科大学基礎工学部、同大学院基礎工学研究科卒業。現在は都内の大手電機メーカーに勤める。

ーーー高校までは地元の長万部で過ごし、大学進学をきっかけに上京。「いろんな世界を見たいから」という理由で北海道を飛び出した。いまの殻を打ち破ることで見えてくる世界とは。

長万部から理科大へ

大学進学は、高2くらいのときに考え出して、「自分は大学行くんだろうな」くらいの気持ちで。高3でどんな大学があるのかと情報収集をし始めてました。北海道から出て、いろんなものが見たいという想いがあったので。先生から「理科大はいける」と言われて。それで上京できるチャンスだと思いましたね。

理科大の1年次は地元の長万部ですが、2年次からは千葉、都会にいられるので。「いろんな地方から人が来る」や、「いろんなものが見れる」「幅が広がる」という話も聞いて、そこにいけば色々なものが吸収できるんだろうな、色々なものを見たいな、という気持ちで志願しました。当時の想いとしては、「理科が好きだから」というよりかは、「東京に行く手段」でしたね。

理系に興味をもったきっかけ

「自分はどちらかと理系だな」と思っていて、昔からモーターに導線をつないで小さな扇風機をつくったりしていて、そういうのが好きだったんですよね。父が日曜大工をしていたり。ものづくりは楽しいな、という。いま勤めている会社は、大学の研究の延長でして、医療機器系をずっと研究していました。その影響で、就職もそういう会社に行こうと決めました。

上京して起こった変化

交遊関係が増えました。大学に限らず、インターンなどでも他の大学の人、文系の人などとも出会えました。あとは理科大の友達の紹介で、他の大学の人とのつながりも得られたり。

あとは行きつけの店(アジアンキッチン「イニサジャ」)が出来て、そこでは日本人問わず、外国の方とも交流を深められました。グローバルなつながりですね。そんなに英語はできるわけではないんですが、初めて「日本の枠を飛び出した」って感じがありました。英語は共通語だから、英語ができないと他の国とはコミュニケーションがとれないので、英語の勉強も一生懸命に始めましたね。英会話に週5で通ってみたり。東京は人との出会いがいっぱいあるから、長万部と比べたら、かなりシェアは広がりましたね。

長万部にキャンパスがある「東京理科大学基礎工学部」の生活

まず入学式のときは、東京に前日入りしていました、これまでの長万部での学生生活と違って、全然知らない人と会うことになるので、緊張してました。入学式が始っても隣の席の人とも話せなくて。それくらい緊張してましたね。

それで式の途中で「基礎工学部の学生は(会場から)抜けてください」というアナウンスの後に、空港に向かうバスに乗ったんですが、そこでも緊張してしまっていて、全然話せませんでした。さらに空港に着いて飛行機に搭乗したあとも緊張していたのですが、勇気を振り絞って「出身はどこなんですか?」と、ようやく話しかけることができたんです笑

新千歳空港に着いて、最後の移動手段である長万部に向かうバスでは、疲れて寝ちゃっていました。それで、長万部に着いたら着いたで、祖母が理科大生歓迎の旗を振っていて、また恥ずかしくなりましたね笑

「ここ(長万部)出身です。」

4人部屋の寮に着いて、そこで初めてまじまじと話をしました。みんなノリがよくて、面白い人たちばかりでしたね。「どこ出身なの?」と聞かれて、「ここ(長万部)です。」て答えたときのリアクションが凄くて笑

でも、そのおかげで、自分が「長万部出身」だということが人づてでどんどん伝わっていって、そしたら色んな人から話かけてくれるようになったんです。「どこか遊びに行きたんだけど、おすすめはある?」とか「長万部公園ってどう行くの?」とか。

地元出身というだけで、本当に色んな人に自分を知ってもらえましたね。交友関係も広がりました。同じ部屋だった3人とは今でも仲が良くて、この前はGWに飲みに行ったりとしてる関係です。

「人の輪の広げ方」「つながりの増やし方」

自分はちょっとシャイな方なんですけど、根っこにある「広げたい」って気持ちが勝手に行動をさせてます。

東京では色んなイベントに行ってました。セミナー、就職活動に関する勉強会などですね。あとは音楽が好きで、音楽業界の企業のセミナーなどにも行ってました。いまでも連絡を取り合ってる人もいます。つながりができて、色々と情報が入ってくるようになりました。

できること、やりたいこと

就職活動をしているなかで、ちょっと分かったんですが、まずは社会人になりたかったんです。大人の場を味わいたいというか。

自分は院卒なので、人と比べて学生経験が長かったということもあり。いま働いているなかでも「これまでに学んだことが、ここでつながっていくんだ」ということが実感できていて、無駄なことなんてないんだと思ってます。

自分の「強み」について

とくにずば抜けたスキルってないんです。でも、興味のあるところはどんどん追求できるところですね。最近は、自分があまり興味のないところも色々と見てみないとな、と思うことがあります。「1つのジャンルを突き詰めるのではなく、幅広くいくこと」ってよく聞きますし。人生のアクションは30歳からでいいので、20台のうちは「土台」をどんどん大きくしていきたいです。

そのためにやることは、交友関係を広げたり、自分の興味を突き詰めたり、逆に幅広くみたり、ですね。人生1度なので、どうせならずっと楽しんでみたいじゃないですか。だれもやっていないことをやってみたいですし。歴史に名を残すのは、凄いことを成し遂げたあとに付いてくるもので。

大学時代、院にいくか就職するかで迷ってたんです。このまま就職していいのかな、と考えてました。そのときのモチベーションと、今のモチベーションは全然違いますね。院にいくかで迷っていたとき、本気で自分と向き合うことにしました。考えに考え抜いて、ロジックツリーを描いてみて、どんどん自分の内に掘り下げていったんです。

「じぶんはこっちのタイプじゃないかも。もっとエンジョイしたいのか?でも自分の柄じゃないし…」と。心の奥底では、こういうことを思ってるんだろうな、というとこまで掘り下げていきました。そういう風に思えたのも、色んな経験をして、色んなものを見てきたからなのかもしれません。上京しないことを否定するとかではないんですが、もし長万部など北海道に残っていたら、そんなに広がらなかったんじゃないかと思います。

いま思うと、高校から大学進学を選んだことは間違いじゃなかったな、って気持ちです。北海道で大きいですけど、(価値観の広がり方としては)狭いですよね。多様性があまりないかもしれません。長万部のような小さな町から札幌や函館へ行ったとしても。

長万部の10代へメッセージ

自分のやりたいことを見つけるために、自分の味わったことのない世界に踏み出してほしい。

居心地の悪いところにあえて行ってほしい。カンファタブルゾーンを超えて。これからの人生について、深く考えたことのない人は一回外に出て、色んなものを見て、経験して、そのきっかけになるために色んなものに触れてほしい。居心地の悪いところに行けば、きっと何か得るものは絶対にあるはず。

「広い世界を見てほしい」

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【長万部町出身者インタビュー】エンジニア 水上光「自分がかっこいいと思ったものが、自分の価値観だから」


この記事は、はてなブログにて2014年5月より連載していた「リマンベのシゴト論」を加筆修正したものです。

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【プロフィール】
水上光
1990年4月27日生まれ。いずみ保育所、長万部小学校、長万部中学校出身。中学卒業後は地元を離れ、函館工業高等専門学校情報工学科に進学。5年間の寮生活を経験し、トップクラスの成績で卒業。20歳で上京し、現在は都内で国内大手情報通信会社に勤める。担当は国内外ネットワークの設計構築。入社3年目のネットワークエンジニア(取材時)。

ーーー「この会社との出逢いは、インターンシップでした。ネットワーク系にずっと興味があったので、名前を見たときは即決でしたね。」自身の得意な分野を追求し、インターンシップの体験を経て「この得意分野なら、自分の力を活かせる」と実感したという。遡ると、小学生のときのインターネットとの出会いが、彼のシゴトを導いたのかもしれない。

出会いは小学生のとき

正直、小学生のときは無趣味な子供でした。習い事もスポーツクラブも所属せず。ただ友達とか遊んだり、走り回ったりしてました。そんな子供時代に感銘を受けるものがありました。「インターネット」です。小学5年生くらいのときに家にパソコンがきて、そこからインターネットをやる機会が一気に増えました。

当時のインターネットには、「おもしろフラッシュ(参考サイト)」など、面白いコンテンツがいっぱいあって、「こんなに面白い世界があるのか!」と衝撃でしたね。そうこうしているうちに、ITの世界へ入っていきましたね。そしてパソコン好きが高じ、さらには家族や親戚の推薦もあって、高専に進学しました。

高専に入ってからは、専門的な話になってしまいますが、プログラミングやハードウェア、ネットワークやデータベースなどを体系的に学び、そのなかで「ネットワーク」が自分に合ってることに気付きました。なんというか、楽しかったんです。構築したネットワークが、パソコンとパソコンが「つながる瞬間」が好きで、楽しかったんです。自分で機器いじってる感だったり、自分で作ったネットワーク完成する瞬間が好きでした。

たまに通信が上手くいかないときもあって、「じゃあなんで通らないんだ?」って問題分析します。原因を少しずつ特定していって、ついに繋がったらすごく嬉しかったですね。壁にぶつかったときほど、クリアしたときの喜びは大きいじゃないですか。上手くいかないことがある。でも、原因は必ずそこにある。その問題解決をしていくのは、パズルを解くというか、論理的な思考が試されて非常にやりがいを感じましたね。

ネットワークで社会に対してできること

ネットワークを専門にした根本思想は、小学生のときの「インターネット、楽しいな」という気持ちです。その楽しさがあるんです。最近で言えば、YouTubeだったり、Facebookだったり、LINEだったり。世界中の人が、そんなコンテンツを簡単に利用できる、そういう土台・基盤をつくることができますから。

現在、会社では公共系の仕事、主に官公庁の案件を担当しており、仕事をしているときに「仕事を通じて社会に対して影響を与えてるな」って本当に思います。自分がやっている仕事が、社会に対して役立ってるということを。その分、抱える責任も半端ないですが。。。ネットワークをやるにせよ大きなことをしたいですね。

20代のうちには、SI業務(システム設計構築)のプロジェクトマネージャーとして案件を回せて、かつ人間的に頼られる人材になりたいですね。

自己研鑽の観点でいえば、ネットワーク分野の最高峰試験である、CCIEという資格の取得が目標です。また、「かけ算のスキル」として、ネットワークと密接につながる「セキュリティ」や「サーバ」に関する知識も深めていく必要があると考えています。

世界は、もっともっとネットワークでつながりますから。いま、みなさんがこの記事を読んでいるのも、ネットワークという基盤があって、人と人がつながっているからです。

「長万部出身です」というだけでネタ

社内の他部署や社外との交流のときに自己紹介することがよくあるんですが、出身については「桃鉄にある駅ですよ」って言えば、食いつきがいいですね笑。ある程度上の方には「テレビでネタをやってるひとです(由利徹)」と言いますし、20代・30代は、「まんべくん」で食いつきます。

場所の紹介の仕方は、「(右手を「C」の形にして)ここが函館で…、(右肩を指して)ここが札幌で…その間の(肘を指して)ここが長万部です。」って言えば、ウケますね。あとは「理科大あります」だったり、「理科大の女子寮は天然温泉なんですよ」と紹介しても食いつきがいいですね。

「趣味はなんですか?」と訊かれたら「カラオケが趣味です」と返して、「なぜかというと長万部は遊ぶところがカラオケしかないから」という自虐的な紹介も笑

同級生のうち、首都圏に出てきているのは片手で足りるほどの人数です。こっち(首都圏)にでてきてるのは5人くらい。同級生のなかには(連絡をとってなくて)行方不明の人もいますが、片手で足りる程の人数だと思います。

僕の学年は50人いて、そのうちの20人くらいが地元に残っていると思いますが、他の学年を比べると、けっこう多い方だと思いますよ。年に2~3回は地元に帰ってみんなで集まってますね。10人くらい集まってワイワイやってます。最近はみんな社会人となって忙しく、集まれる機会は貴重なので、この繋がりを大事にしていきたいですね。

「自分の好きなことを見つけておくこと」

それって、将来(の人生において)何かしら携わってきます。あって損はなく、むしろ、ないと損するものです。その「自分の好きなもの」の探り方や堀り方は、「何が楽しいか」ですかね。

マンガを読んでいて「この主人公のこれがカッコいいなー」とか、何気なくマンガを読んだりテレビを観たり、映画を観たり。そういったときに「何で(このシーンは)かっこいいと思ったんだろう?」とか「なんで可愛いと思ったんだろう?」って、自分に対して「なぜ」を問うこと。

僕はインテリアやカフェなど、お洒落な空間が好きなんですけど、「自分はどういうテイストのものが好きなのか」と考えたときに、まずは自分が「こういうのがいいな」と思えたものを集めるんです。

「お洒落部屋」を例にすると、「こういう観点のお洒落も素敵だな」とか、「この人の部屋のここのセンス、好きだな」とか思った写真や記事をひたすら集めます。すると、その集めた画像や雑誌、写真などの「もの」は、一覧にしてみると、思いのほか客観的に見ることができます。

情報量が多くなると、それだけ客観的に自分の価値観を見ることができます。こういう思考のなかで、自分の中の価値観にぴったりとしたものが見つかるんです。きっかけは何でもいいんです。自分がかっこいいと思ったものが自分の価値観なんですから。そうしてるうちに、好きなことは見つかると思いますよ。

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【長万部町出身者インタビュー】アパレル 武澤 光歩 「夢中のままで突き進んでほしいです。気持ちのままに。ゴールへ向かって。」


この記事は、はてなブログにて2014年5月より掲載していた「リマンベのシゴト論」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。中高生のお子さんをもつ保護者の方、長万部の学校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい内容となっています。

> 「リマンベの仕事論。」の全記事を見る

【プロフィール】
武澤未歩(TakezawaMiho)
1988年9月24日生まれ。いずみ保育園、長万部小学校、長万部中学校、長万部高校を経て、東京のバンタンデザイン研究所スタイリスト学科に入学。卒業後はアパレル会社に就職。渋谷パルコ、新宿ミロード等の店舗に勤める。退職後は一旦長万部に戻ったものの、2013年に再び上京し、現在は服飾雑貨会社に勤務。

ーーー東京の服飾専門学校に通い、アパレルへ就職。その後長万部に戻っていた時期があったが、再び上京した武澤氏。取材のこの日、話したいことは「人生で2回逃げたこと」と語る。

1回目の後悔「選びたいのに選べなかった」

長万部高校を卒業してなぜ東京にきたか。それはスタイリストになりたかったから。もう服が好きすぎて。上京してすぐのとき、けっこうビックリしたことがあります。小さい頃から目立ちたがりでしたが、学生時代通っていたバンタンはもっと個性的な人ばかりでした。「私よりおかしな人が沢山いる!笑」全身蛍光色の服を着た、宇宙人みたいな人とかですよ。宇宙人と一緒にいるんですよ笑

でも、こっちは長万部(出身であること)を武器(ネタ)にして、だんだんと学校に溶け込んでいきました。友達の中には、学校に通いながらアシスタントについてた人がいました。それも、超有名アイドルグループのスタイリングも担当している大物のスタイリストのアシスタントに。仕事はもう忙しいみたいで。スタイリストである師匠の「犬の散歩」から「家の掃除」までやるんですよ。「真夜中に呼ばれても行かないといけないから、携帯の着信音を大音量にして待ってる」って。そうやって頑張って仕事をしていたら夢は叶うかもしれないんですけど、あたしはそういうの見てから、正直ビビってました。

その超有名アイドルグループについてた師匠は、もう売れて売れて。…と過ごしていた矢先に、師匠から「俺、ちょっとデザインやりたくなった」と言われて、友達はアシスタントとしての首を切られたんです。目の前が真っ暗になりました。自分のことでもないのに。アシスタントの仕事って資格もないし、保証もあるわけでもない。でも、それを無給でやってたんですよ。大物だから無給でもどんどん応募は入ってきますから。覚悟がないとできない仕事です。

それで私は、「1人でやっているスタイリストの人」にアシスタントとして就くのは怖かったから、学校の1日体験学習等を利用して、アシスタントに入ることにしました。。雑誌、テレビの仕事や、東京ガールズコレクションのフィッティング(ステージ裏でモデルに服を着せる役割)、東コレなどをやってきました。

そこでも華やかな世界の裏方を見てビビってしまいました。やってもいないのに。でも続けてみなきゃわからない!と気合いを入れて臨んだ雑誌の現場。言われたことをやるだけで精一杯で。「(私は)何をやったらいいですか?」って聞いたら怒られて。初っ端から随分泣かされましたね。笑その日を境に次行くことが怖くて、現実逃避です。自分の弱さを知りました。

就職のとき、アシスタントに行こうか考えたんですが、泣かされた最後の一日の経験が頭に残ってて、結局アパレルを選びました。「アシスタント」を選べなかったこと。行きたい世界に飛び込めなかったこと。それが一回目の後悔です。

2回目の後悔「就職先で巡ってきたチャンス」

就職先のアパレルでは販売として入って、自分では思った以上に楽しかったです。話すことが好き。話をきいてあげるのが好き。服も好き。しかも当時好きだったブランドに入れて、好きな服に囲まれて接客もできて楽しかった。そこでも鬼店長がいて、毎日泣いてたんですけどね笑過酷なとこでした。

でも、よく怒られた方がよかったなって、今になったら思えます。それで、そこでの販売の仕事は自分にも合ってて楽しかったんですけど、このままこの仕事を続けていって昇格していくとして、そのまま店長になっていいんだろうかと(考えてしまって)。何のためにこっちにきたんだろうって。一日中、狭いお店の一角にいていいのかなって。

私は、広い世界を見たい。いろんな人に会いたいし、いろんなところに行きたい。いろんなものを見たいし、吸収したい。要は、居心
地が良いとこにいたんですね。

あるとき、このままでいいの?って気づいて、「辞めよう。もう一回やりたいことに挑戦しよう」って決めました。店長に辞意と伝えたら、店長は「もったいない」と。その店長はプレス(ファッション誌等のメディア対応、スタイリストへの服の貸し出し等の役割)の仕事をやっていた人なんですが、

「たけちゃん、プレスのアシスタントに入らない?スタイリストになりたいって言ってたよね。プレスのアシスタントになったら、プレスルームでメディアの人やスタイリストさん、アシスタントさんにも会えるし、チャンスが広がると思うよ。どう?プレスのアシスタントに入らない?」

すごく嬉しかった。すごく嬉しくて、すごく良いチャンスで、さらに尊敬してる店長のもとで働けるんですけど。ただ、ただ問題が。あわない上司がいたんですね。

同僚を無視したり、ヒステリックを起こしてペンとかを投げたりする人なんだけど、その人は(商品を)売れるから辞めさせられないみたいで。その店長の誘いに乗って入ったとしても、その上司と2人でやることになるのができなくて。「その上司と一緒にいたらダメだ、自分が病んでダメになる」って思ってしまい。せっかくの店長からの有り難いお誘いだったんですが、断ってしまいました。今でも後悔してますよ。なんで選べなかったんだろうって。

長万部に戻って、無になって考えたとき

アパレルの仕事を辞めたあと、長万部に戻りました。本当に長万部ではいろんなこと考えさせられて。スタイリストになりたいなら、心からやりたいならやってたはずなんです。でも、やらなかったということは、他に何かしらやりたいことがあったんですね。そこまでだったのかもしれない。

長万部に戻ってた頃の素直な空っぽの頭で考えたら、「ほかにもやりたいことがいっぱいあるんだなー」って考えにたどり着きました。服を選びコーディネートすること以外にも、最近は一からデザインできたら楽しいだろうなとか。「ファッション」はいつも私をぐっちゃぐっちゃにします。好奇心と想像力で。そして笑顔にしてくれます。今は頭の中がやりたいことで散らかってますよ笑

だからこそ、次は絶対後悔だけはしたくないです。焼き付いてますよ。それが私の全部の原動力だから。失敗してもいいから挑戦すること。今までは失敗を恐れて、いつも楽なほう楽なほうに行ってました。今思うと、挑戦して失敗できる人のほうがカッコいいですよ。ほんとカッコいい。「やったけどだめだったー」でも、全然カッコいいですよ。やらなかった後悔はずっと残るし。

一回目の後悔でも二回目の後悔でも、後悔が二回も続いたのは何でだろうって考えたら、「私は挑戦できてない」からなんですね。「後悔」と言っても「挑戦」ができてないから、改善しようにもできないですし。思うことは、ただぽつんと「なんでやらなかったんだろう」って。
「人をキレイにしたい」って(本当に心から)思えるのはこの歳になってからですね。

20代前半の頃は、スタイリストのイメージばかりが走ってて、華やかだなーいう感じで。母から「スタイリストのアシスタントやるって言って、自分を犠牲にしてもできるの?」って言われた、その言葉がすごく響いてます。「お金も時間もなくて、自分はボロボロの格好にスッピンでも人を輝かせることができるか?」って。逆だった。自分がまず第一にキレイにしていたいし、欲しいのものは欲しい。それを武器にして働きたいと。

でも今は、前の自分よりも、自分自身をほどほどにして、客観的に見られるようになりました。「こういうの着たらもっとキレイになりますよ」って、自分以外にも目を向けられるようになりました。視野が広くなって見えてきたんですね。

私はどんな環境でも自分なりに楽しんじゃうんです。良いとこでもあり悪いとこでもあります。遠回りになったのも寄り道が楽しくて楽しくて。笑でもこれからは逃げずに逆境こそ楽しんでやると思ってます。周りには「悩みないでしょ」と言われたりしますけど、悩んでばかりですよ。恥ずかしいですがやりもしないで悩んでばかり、でも大きな声で夢を語る強がり口だけ女です。ここでやっと認めて卒業します笑

もう後悔したくない、これからの私

野心はあります。今ってネット通販が0円でできたりするサービスがあって、「BASE」とか「STORE.jp」とか。テレビでこういうのがあるんだって知って、それをつかって何かしてみたいし、パーソナルスタリングもやってみたい。

あとは、恩師の先生とつながってるから、昔の「学生と先生」の立場じゃなく、先生と会って話を聞いてみたいです。いまやりたいことは、人に会うこと。いろんなことを吸収したいし、何でも吸収していく時期だと思ってます。

それと、私に向かって、「みほ、そのままでいいの?」って奮い立たせてくれる人がいます。自分がダメになりそうなときにライバルを見ると、「私もがんばろう」って思えますね。そうそう、ライバルをつくっておくといいですね。「あいつには負けない!」って思えて頑張れますから。無理でもつくっておけばいいです。この人には負けないって。

長万部の10代へメッセージ

「思ったらすぐやること」。なぜなら…、自分が後悔してるから。時は流れてしまうものだから。感情って、時間が経ったら冷めちゃうものだから。

ふと、「あのときの自分に戻りたい」って思うことがあるんです。燃えてたときの自分に。燃えて楽しかった頃の自分に。ふとした瞬間に思うことがあるんです。どんなに一瞬でも輝かしいときがあったと思うし、その一瞬って人生でもすごいときかも。流行語じゃないですけど、その一瞬が「今でしょ」って。

あたしは気づけなかったんです。あんなにも輝かしかったのに、ダメになってしまった。だからこそ、みんなにはその一瞬を見逃してほしくない。転機のある中学生、高校生の時期だから。そのときを見逃さないで掴んでほしい。

考えてたら歳をとっちゃいますよ。若い時の熱って、純粋なものでしょ。歳をとると、お金のこと、生活のこと、…とか色々心配してしまうし笑純粋なときのその気持ちを持ち続けて、夢中のままで突き進んでほしいです。気持ちのままに。ゴールへ向かって。

【編集後記】

「チャンスの神様は前髪しかない」という言葉がキーになる取材でした。「巡ってきた機会は逃さず掴め」「チャンスとは前髪があって後ろ髪がない頭のようなもの。見過ごせば、掴み損なう」という意味のことわざです。
挑戦をしている人の前にしか「チャンス」は訪れないといわれており、さらに挑戦をしつづけている限り「失敗」とは呼ばないといわれています。挑戦の分母を増やし、チャンスの神様がやってくるときに備えて、いつでも掴みにいけるようにすることと、その瞬間をしっかりと掴むこと。この2点と、何度でも挑戦するマインドの大切さを、改めて痛感した取材でした。
話は変わりますが、取材中にこんな話も。

東京では、本当に長万部に助けられました。私、子供の頃から「芸能人」や「お笑い芸人」に憧れてて、前に出たい!って気持ちが強かったんですね。それで、恥ずかしくてあまり言ったことがなかったですが、私が前に出て、「将来は長万部を有名にしたい!」って思ってました。どうやったらいいかなーって考えたら、「長万部出身」をネタにしてやろうと。同じく東京に出てきた友達の中には、自己紹介のときに恥ずかしくて「函館方面出身です」って言ってたらしいんですが、逆に私は「長万部出身」であることを強みにしてますよ。長万部って、名前だけ(有名)じゃなくて、良い町だから。東京にきて思うことは、長万部って美味しいものがたくさんあるってこと。こだわった味もあるし。美味しくて超安い。いつかどんな形でも良いので紹介したいです。テレビとかで取り上げられるときにも、「ここは誰々の出身地です」というふうにしたい。ホント、長万部にはどんだけ助けられたら分からないですよ。ささやかでも、その分はお返ししたいです。

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【長万部町出身者インタビュー】美容院Noir 金丸寛「東京で学んできたことを、長万部の地にフィードバックしてあげたい」


この記事は、はてなブログにて2014年5月より掲載していた「リマンベのシゴト論」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。中高生のお子さんをもつ保護者の方、長万部の学校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい内容となっています。

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【プロフィール】
金丸寛
1980年12月12日生まれ。いずみ保育園、長万部小・中・高校卒。その後、札幌の美容院に1年間インターンを経験し、小樽の美容専門学校へ進学。卒業後は東京銀座の美容院に10年間勤務。現在は独立し、長万部町内に美容院「Noir」を経営。

現在のシゴトについて

「Noir」オープン当初は、1日に12名ほどの来客があり、子どもからお年寄りまで幅広くご利用いただいてますね。そうそう。長万部って「予約」の文化がないんですよ。お年寄りの方なんかは扉をバーンってあけて「いま空いてるー?」っていうノリで。長万部の特性なんですかね笑ヘアについては、奇抜すぎてもダメですね。でも、せっかくNoirで切ったのに全然変わってないと自分が切る意味もないので、ちょっと変えてあげたいんです。Noirで切ることによって意味があってほしい。ファッションや眉毛、メイクなどとあわせてトータルアドバイスもしています。

いまでは長万部以外のお客様にも来ていただいて、近隣町の八雲、寿都、黒松内・・・などですかね。口コミで広がっているみたいです。1人のお客様に満足いただいて、そこからまた口コミと。口コミって、良い事も悪い事も瞬時に広がるので、「毎日ヒットを打たないと!」というプレッシャーにはなるんですが、励みにもなりますね。お客様が求めていることを汲みとって、ヘアで表現する。その繰り返しですね。

シゴトのなかで印象的だったこと

自分が切ってあげたことによって、その人が良い方向に変わっていくことですね。例えば、今までは市販のシャンプーをつかっていたのが、美容院でしか売っていないような専門的なものを使うようになったり。ほかはファッション。田舎のファッションっていうか、長万部って街中にお洒落な人がいなかったんですが、お洒落してNoirに来てくれる人もいたり。お洒落して出かける文化がでてきたっていうか。そこが嬉しかったです。まずは1人を変えてあげてから、その1人が他の人に良い影響を与えて、影響を受けた人が変わっていって・・・という繰り替えしで「文化」ってできますからね。

このシゴト(美容師)を目指したきっかけ

母が飲み屋の客商売をしていたこともあり、よく母のヘアメイクのセットをしに髪切虫に行くのを、子どものころについていったのが原体験かもしれません。あとは、女性をキレイにすることだったり、家が飲食店でして、そこで接客をしている姿をいつも見てきたってことも影響しているかもしれませんね。

それで、中学の頃は部活で吹奏楽をやっていまして、当時は「高校は吹奏楽が強いところに進学したい」って思うくらいに吹奏楽に夢中だったのですが、高校に落ちてしまい。音大に行って音楽をつづけることも考えたのですが、音大ではピアノが必要で。音楽で食べていくのは非常に厳しい世界ということを考えていた矢先、子どものころの「髪切虫での母のセット」のエピソードがぶわって頭に浮かび上がってきまして。当時はカリスマ美容師ブームがあったこともあり、それらの出来事なり想いが重なり、美容師を目指すようになりましたね。カリスマ美容師ブームは高校一年生くらいのころでした。東京に行きたいって思ったのは、ミーハーなので芸能人のヘアメイクをしたかったということと、「どうせやるなら東京で」という想いが強かったからですね。

長万部に美容院を開業した理由

東京の美容院で働いていた29歳か30歳のころ、自分の人生について考えまして。このままずっとやっていってどうかな。将来の収入はどうなるかなーと。自分の目指す方向に行くには、自分自身が経営者にならないと難しいんじゃないかって考えてました。

夏休みに長万部に帰省した際、髪切虫の場所を借りてカットをやってみたことがあったんですが、そのときには予想外の人出になりまして。それで、「それだけ自分のところに来てくれるんなら、長万部で自分の美容院をやれるんじゃないか」と思ったのがきっかけですね。

長万部って本当に田舎町で、2011年頃には「まんべくん」をきっかけに町が盛り上がったといえばそうでもなく、それは一部に限りますし必ずしも全体が盛り上がっているわけでない。そんな中で、「長万部に新しい風を吹き込まないといけないな」と考えましてたね。町自身は活性化してないですし。

自分は「キレイに、カッコよく」変えていきたいっていう考え方なので、自分が美容師としてこれまで10年近く東京で学んできたことを、長万部の地にフィードバックしてあげたいんです。

シゴトの失敗、それを乗り越えること

小樽の美容専門学校を卒業して、東京の美容院で働くようになったころです。「シャンプー」って、普通は1ヶ月で合格できるようなものなんですが、自分は5ヶ月もかかってしまいましてね。やっと受かったと思ったら、直後のシャンプーでお子さんの背中を濡らしてしまったり。ほんと、はじめは失敗の連続でしたよ。

自分は不器用でして。感覚は敏感なんですけど、その感覚をつかむまでが長いんですよね。いつも先輩に怒られて、胸ぐらつかまれることもときにありましたけど、「ブラックの息子が美容師辞めて長万部に帰ってきた」とか言われたくないので頑張って東京で続けてきました。プラス志向で乗り越えていきましたね。悔しくて何度も泣いた夜もありましたけど、朝起きたら気分を入れ替えて頑張ってきました。

長万部に暮らす10代へ

自分がどうなりたいか明確にしておくこと。以前、理科大に通ってる子がうち(Noir)に来たとき、カットしてるなかで入学理由について尋ねてみたら「指定校だから入った」ということがありまして。具体的に自分がどうなりたいかっていうイメージが描けていなかったようなんですよ。この大学に行きたいんだっていうイメージが。美容師は職人の世界ですから。手荒れがキツいという理由ですぐ辞める子もいますよ。本当に「好き」って気持ちがないとできない世界で。なんとなくじゃやれないんです。

あとは、「良いものに触れたり、良い人に出会う」こと。見た目から入るのもいいですし。良いものに触れたりするのって、上に上がるためのカギですから。所詮みんな「人」なので、人に平等に与えられる「1日24時間」のなかで、どう過ごすかが大事ですね。失敗を恐れたり、自分だからどうせできないって考えてないで、まずやってみたらいいですよ。出ないと見えてこないから。グラフでいうと、上がって下がっての繰り返しのようで、ジグザグに上昇していくもんなんで。

まず失敗。そして、そこからの気持ちのもっていきかたですよ。あとは、人への思いやりが何より大事で。助けたくなるように人間になることが、自分がのびるためには大事なんです。

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【長万部町出身者インタビュー】介護士 前川大樹「分からないことから逃げないでほしい」


この記事は、はてなブログにて2014年5月より掲載していた「リマンベのシゴト論」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。中高生のお子さんをもつ保護者の方、長万部の学校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい内容となっています。

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【プロフィール】
前川大樹(TaikiMaekawa)
1989年3月生まれ。マリア幼稚園、長万部小学校、長万部中学校、長万部高校を経て、函館臨床福祉専門学校卒業。現在は介護職として八雲町の老人保健施設に勤める。

この仕事(介護)を選んだきっかけ

高校2年のときのインターンがきっかけになりました。インターン先は特別養護老人ホームの「慈恵園」だったんですが、「こういう仕事もあるんだなー」と当時は思ったくらいでしたね。それと兄も介護職で、さらに兄と同じ専門学校に行っていたということもあ。就職率が100%だったということもありまして。

あとは…成績があまり芳しくなかったというのもあるかもしれませんね。自分はワンパクだったので、部活や友達の家でゲームして遊ぶといったことをよくしていていて。勉強はキライでしたので、カラダを動かしたいという感じでした。遊びは外で遊んだりゲームしたり、勉強は苦手な体育大好き人間だったんですよ笑

といったこともあり、当時から「少子高齢化」が叫ばれる時代だったので、介護をやっていれば生活には困らないかなという思いもあり、この道を考えました。

はじめの一歩を踏めた

過去にこんな出来事がありました。函館での専門学校時代、座学とは違う「実習」という現場を体験する授業があります。その実習のなかから、いかにして自分に学びを取り入れるか、実践からの学びですね。

実は、自分が専門学校時代のときって、あまり周りの人とは話さなかったんです。自分は自分の好きなようにやっていくというか。でもそんな萎縮した状態で実習に行ったらその姿を見る施設の利用者の方も萎縮してしまうのではと思い、どうしようか考えて「素」の自分を出してみることにしました。すると、利用者の方が自分に興味をもっていただけ、話かけてくれたりして「なんだ!イケんじゃん!」って思いました。「こういう感じでやっていけばいいんだなーという感じですね」。萎縮していた自分が変われた瞬間でした。嬉しかったです。一歩踏めたので。

…と、このような成功体験を積んだ一方で、他の学校のヤツらは実習で「利用者にこういうサービスができたら、もっとよかったんじゃないか」とか話をしていて。その実習先から「うちで働かないか?」とスカウトがきていたり。上には上がいるんだなと思いました。

自分は部活で「陸上」をやっていて、周りに「全道大会で何位」というような成績をおさめるような人がいたりしていたので、対抗心は備えもっていましてね。それでヤツらに闘争心を燃やしました。「このままじゃダメだ、なあなあじゃダメだ」と。昔から「やるからには行けるところまで行きたい性分」でしたので。

子供ができてから変わったこと

働きだした当初はひねくれていまして。入社2~3年くらいの頃ですかね。先輩や上司からアドバイスは受けていたのですが、自分のやり方が自分の中にあって、固執してしました。アドバイスを聞かずに淡々と。でも子供が生まれてから、大きく変わったんです。まず、施設の利用者の方の話をよく聞けるようになりました。施設のなかには認知症の方がおりまして、つじつまの合わない話をされることがよくあります。子供が生まれる前はよく分からなかったんですけど、それって「赤ちゃんが泣く」のと同じなんです。

赤ちゃんは泣くことしかできない。赤ちゃんは泣くことでしか「してほしいこと」を意志表示できないんです。それを親がくみとってあげないといけない。つじつまの合わない話のなかから何をくみとるか。利用者の方の話をよく聞くようになってから、利用者の方が私との接し方が変わりました。利用者の方のしてほしいことに、自分が応えてあげられたんですね。子供を育てつつ、自分も育てられました。

子供が生まれてから広がった視野

そんな経験も積み重ねていき仕事にも馴れてきたとき、ものごとを俯瞰して見れるようになったんですね。それで、いざ周りを見てみると「苛立ちながら仕事をしていること」に気づきました。職員同士の不満はどこにでもあると思いますが、介護職で離職率が一番高いのは「同じ職場同士の不満」。30%で1位です。2位が「職自体への不満」「給与が低い」などでしたかね。

いまはその「介護職に存在する不満」を解消したいんです。まだ解決策は見いだせていないんですけど、個人のメンタルケアなど、自分のストレスの度合いをはかれるようになったり、ストレスの逃がし方を分かるようになったり。いろいろと方法はあります。介護職って女の職場であり、表面上は笑っているけど、いざ飲み会になると…ということもありまして、ストレス耐性が大切なんです。

子供が生まれてから、利用者の声が聞けるようになって、自分に余裕ができました。それでいざ周りを見てみると、苛立ちながら仕事をしていることに気づきました。声を荒げていたり、イライラしていたり。いままでは自分勝手な人間でしたけど、子供ができてからうんと変わりました。先輩に子供ができたときも「けっこう先輩変わったなー」って思うこともあったのですが、いざ自分に子供ができると「こんなに変わるんだなー」としみじみ実感しています。

長万部の10代へメッセージ

「分からないことから逃げないで」。これも子供が生まれてからの変化でして。今までの自分は、「分からないことは分からないまま」でほっといてたんです。勉強も仕事も。自分はそこから逃げてました。でも子供が生まれてからは、分からないままにはできないので。分からないことから分かるまでのプロセスって、調べたり、労力をつかったりして面倒なんです。でも、必ず自分の糧になる。知識がつくと、身に付くようになります。周りにもどうやって活かせるか考え、「知識」を「知恵」として活用する。

もう昔の自分みたいに、わからないことを放置してるんなら、分からないことから逃げないで挑戦してほしい。わかんないだろうけど、調べるのは面倒かもしれないけど、分からないなりに調べてみて親でも先輩でもいいから訊いてみて、そのなかから自分の中で答えをだして成長していくんです。
漫画かなにかのセリフで、こんなのがあったんです。「先輩とか上司の信頼する友人がこうだよって自分の考えを提示するから、後で自分が困ることになる。自分でやんないから。」昔からずっとこのセリフが頭にありました。

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【長万部町出身者インタビュー】アイウェア企画・販売 佐野翔太「切磋琢磨し合える仲間を見つけること」


この記事は、はてなブログにて2014年5月より掲載していた「リマンベのシゴト論」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。中高生のお子さんをもつ保護者の方、長万部の学校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい内容となっています。

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【プロフィール】
1988年北海道生まれ。大町保育所を経て、長万部小、中学校へ進学。高校からは地元を飛び出し、北海道栄高校特進科へ進学。大学進学のため上京し、現在は業界トップクラスのアイウェア企画・販売会社に勤める。特技は陸上の長距離。小学校から始め、高校では全道大会の決勝進出、高校駅伝では全道4位を誇る。これまで走った距離は地球1周(約9万Km)を超える。

ーーー6月からは店長職への昇進を果たした佐野氏。待ち合わせ場所である新宿駅東口では、リーダー論の本を読んでいた。今回の取材場所は、新宿三丁目にある「ブルックリンパーラー」というカルチャーがごちゃ混ぜとなったカフェだ。これまでの経歴、自社製品、そして仕事に対する佐野氏の哲学について伺った。

大学進学のため上京した佐野氏。北海道から上京して驚いたことは?

ベタですけど、「都会の人」ですかね。昔、友達が看板に頭をぶつけて、血がだらだらと流れるくらいの怪我をしてしまったんですが、その場に立ち会わせた通行人は通りすぎるだけ。大学はまわりの友達が地方出身者ばかりで、東京出身がいなかっただけあって、そういうこともあって、初めて「都会」を感じました。田舎と比べたら「つながり」がないですよね。おじいさんがホタテをもってきてくれるのような「おすそわけ精神」が。ほかは、回転寿司が美味しくなかったことですね。笑。マグロとイカを食べたんですけど、衝撃でした。それと比べて、本当に北海道の寿司はおいしい。

仕事の哲学

自分がいいって思ったものじゃないと。自分が良いと思える眼鏡だけを薦めるんです。眼鏡の合わせ方なら、服装と眼鏡をみて、黒ぶちならジャケット、カーディガンなら黒斑よりかは色が明るい色とかですかね。自分は服を選んでからメガネを選びますね。メガネは20本は持ってます。似合う眼鏡の選び方なら、眉毛からあごまでの距離の3分の1が似合う、肌の色、顔の幅に合わせる、とかありますね」

ーさらりと「自分がいいと思ったものだけですよ」と言う佐野氏。ロジックに裏打ちされた美の法則がしっかり頭に叩き込まれており、これまでの勉強量が垣間見えた瞬間だった。

地元「長万部町」のことついて

遊ぶところが本当にない長万部。あったらいいと思うような遊び場は。「富野公園(富野地区にある「長万部公園」を指す)」にもっとアスレチックを増やせばいいと思います。ハンモックや、ターザンロープとかですね。ロッジがあってキャンプもできる環境なので、そういうのがあればもっと遊べますよね。自分だったら遊びたいです。

あとは、イベントを増やして、もっと人が集まるようなきっかけが必要だと思います。昔、毛がにロードレースってありましたよね?毛がにロードレースは復活してもいいじゃないかって思うんですよ。なぜかというと、地方のマラソン大会ってけっこう人が集まるんですよ。北海道でも3000人は集まります。イベントが大事だと思う。東京マラソンなんかは参加者はいっぱい集まりますし。(2013年度は3万6千人が集まった。毎日新聞http://mainichi.jp/sponichi/news/20130224spn00m050010000c.html)ホテルとか宿泊施設、観光などの興行収入だってあります。

毛がにロードレースがなくなってしまったのは寂しいですね。もし復活するとしたら、賞品は今日とれたホタテとか、地元の特産品でも全然いいと思います。「夕張メロンカップ」という事例があり、そこでは優勝したらメロン5玉もらえるんです。鵡川町では「ししゃも」がもらえたり。ほかの大会では「じゃがいも」「タマネギ」なども貰えましたね。自分がいた高校の駅伝は強かったので、アマチュアには負けませんでしたよ。賞品ハンターでした笑

町の人口の5%を占める「理科大生」について

町の人口6000人のうち、300人が理科大生。つまりは、5%もの人が理科大生なんですよ!東京が1000万とすると、50万人が理科大生。とても比率が高いですよね。ところで、理科大生ってどこから収入を得ているんでしょうか?。収入は仕送りがメインなんですかね。気になるところです。理科大生の雇用を生むとか、交流を深めて、事業などできたら活性につながるんじゃないですかね。

長万部の中・高校生へ


仕事するまでは、なんでもいいから死ぬほど頑張ってみてほしい。そして、一緒に頑張れる仲間を見つけてほしい。自分の自信につながるというか、自分は今までこんな経験をしてきて、ここまでできたんなら大丈夫って思えることでしょうか。「汗かいておけ」という感じですね。頑張ること、頑張る仲間を見つけた方がいい。

高校のときにいたんですよ、「こいつも頑張ってるから、俺も頑張ろう」と思える仲間が。卒業してからも全然会ってないし、そいつについての情報も入ってないんですけど、「きっとあいつも今頃頑張ってるんだろうな」って思えてるから、負けないぞって気持ちが湧いてきて、自分も頑張れるんです。いまの十代の子って、頑張りたいたい人が多いらしいですよ。「今の現状に満足していない」人が、統計とってら80%くらいいるらしいです。

そう、で、エリアマネージャーの上司に、こう言われたことがあります。「頑張りたいけど、頑張れる環境にない。そういう人を頑張れる環境にもってきてあげるんだ。佐野は(この店でも)ひとりで頑張ってこれたから、今度はそういう人をこっち(頑張れる環境)に連れてくる番なんだ。」自分だけが登るのではなく、そういう「頑張りたい人、登れる人」を登らせるために、自分が手を差し伸べていく必要があるんだなって。「うーん、なるほどなー」って思いました。

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「つまんない町なんじゃない。つまんないのはお前なんだよ」木村充(サンミート木村店長)インタビュー


この記事は、はてなブログにて2014年5月より、長万部町出身者を対象にした連載「リマンベのシゴト論。」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。今後の人生の役に立ち、心にひっかかる言葉がたくさん散りばめられています。中高生のお子さんをもつ親世代の方、そして長万部の未来を支える子供達の教育に熱心に励む長万部の学校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい記事となっています。

今回は、シリーズのなかでもっとも反響のあった木村店長のインタビュー記事です。

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【プロフィール】
木村充(精肉店店長)
昭和50年10月17日生まれ。マリア幼稚園、長万部小学校、長万部中学校、長万部高校卒業。平成6年、自衛隊に入隊。平成20年、(有)サン・ミート木村に入社。現在は店長職として同店の発展に取り組む。

【サンミート木村とは】

創業昭和58年の精肉店。独自の製法やその美味しさからメディアに取り上げられることが多く、お客が町内・町外、年代も問わず、函館から札幌を中心に各地から訪れる長万部の名店。

 

ーーー前職は自衛隊だったそうですが、自衛隊を志された理由は何でしょうか?

木村 僕の親が、子供が自分のもとを巣立つ度に不安に駆られ、夫婦げんかが絶えない生活をしているのを見て、親の不安を軽減できる衣食住の心配のいらない自衛隊という職を選びました。

と、親孝行風に格好良く言いますけど、モテそうな見た目の良い美容師とか洋服屋さんとかの仕事がしたかったけど、親に反対されて、他に自分のやりたいことが全く見つからずに親の言いなりで自衛隊に入隊しただけです。

 

ーーー自衛隊のお仕事をされていた中での、成功体験や失敗体験を教えてください。


木村 僕は正直、問題ばかり起こす「中隊の癌」と呼ばれた、いない方が良い自衛官でした。時間や規律に厳正な自衛隊の中で、門限に遅れたり不正に外出したり、度々交通事故を起こしたりと、昇任も最後尾が決定していたほど部隊に迷惑を掛けていました。

そんな僕も部隊の役に立ちたくて、全く成果は残せなかったものの、他の隊員よりも好奇心や熱意が強く、時間やお金もかけていた「銃剣道」という武道の技術を活かして、格闘指導官の立場を目指しておりました。

リマンベ補足)
自衛隊格闘術(じえいたいかくとうじゅつ)とは、自衛官の白兵戦・徒手格闘戦の戦技として編み出された格闘術。徒手格闘、銃剣格闘、短剣格闘からなり、銃剣術(じゅうけんじゅつ)とは、白兵戦・近接戦闘において、先端に銃剣を装着(着剣)した小銃を武器にして敵を殺傷する武術。銃剣道(じゅうけんどう)は、旧日本軍において訓練されていた銃剣術を、太平洋戦争後に競技武道化したもの。(wikipediaより)

体育学校という施設で行われる教育の参加を熱望し続けること6年目でやっと格闘指導官の資格を取得することが出来ました。外出禁止処分を何度もくらって年間のほとんどを駐屯地内で過ごした木村3曹も、微力ながらも部隊の格闘技術の向上に役立てることが出来たという、奇跡の成功体験です。

ですが、徒手格闘・銃剣格闘から、より実践的な新格闘に変わる、一人でも格闘指導官が必要な大事なという最悪なタイミングで退職いたしました。

リマンベ補足)
2008年(平成20年)に、自衛隊内では「新格闘」と呼ばれる新たな内容の格闘術に変更された。

 

ーーー現在はサンミート木村の店長としてご活躍されていますが、いつから店長職になられましたか?

木村 入社して1年程たった頃、名刺を作る時、肩書が無いと格好付かないという理由だけで店長の役職を頂きました。

 

ーーー現在のサンミート木村のお仕事での、成功体験や失敗体験を教えてください。

木村 木村店長の今までで一番の快進撃は、醤油ホルモンを完成させた事だと自負しておりましたが、札幌三越さんや函館丸井今井さんの催事で試食を配って販売した結果、醤油ホルモンが最も売れた瞬間に、醤油ホルモンを商品化したと名乗る輩が3人にまで増えた怪奇現象が起きました。

きたキッチンさんに置いてもらうことを目標とするも数字の計算力に乏しく、見積書の書き方も全く分からないながら果敢に見積書を作成しセールスに向うも、気が付かないうちに高額な見積書が出来上がっていたため、見事撃沈。

後日、先輩に電話で相談しながら言われるがまま再び見積書を作成し、再挑戦した結果、前回より更に高額な見積書を提出して、自分の知らないところまで噂が広がっていた伝説の持ち主です。

 

ーーーその醤油ホルモンの商品化に至るまでの苦難やブレイクスルーポイント(壁を突破した瞬間)は何でしょうか?

木村 僕がサンミートに就職して最初に作った醤油ホルモンは、他の人間に指示されるがまま動いて出来た醤油ホルモンのため、自分が作ったという自覚は全くなかった。

なにぶん料理経験の無い素人なもので、ホルモンに味付けをするタレを作る事なんて出来るわけも無く、かといって自分なりの商品を開発しなければ自分が居る意味も無い。

今の醤油ホルモンを作った時、「ある調味料をベースに作ってみたらどうか」とサンミート木村の専務をはじめ、他の人間からも軽いアドバイスがあった。

そのアドバイスをした事だけで醤油ホルモンが勝手に出来上がったと勘違いしたことが、自分が商品開発したと勘違いしている輩が居る原因なのかも知れない。確かにその調味料をベースに試作品を作って、試食会を何度も繰り返した。

試食会の度にサンプルを作ってブラッシュアップし、更にその結果をもとにサンプルを最低4つは作って試食会を繰り返した。

その試食会は、親戚の焼肉やバイクの友達のキャンプ、会社内と色んな場所で行われて、色んな人が来た。ホルモンをただ食べるだけの人や、何を食べても美味しいというだけ人。口に入れてから一瞬で吐き出して、何も言わずに背中を向けてどこかに行った社長。

そんな中にも、信頼できる意見を真剣に考えてくれる人が何人も居た。醤油ホルモンの商品開発のブレークスルーポイントは「醤油ホルモン商品化に本気で手伝ってくれる人を見つけた時」かもしれない。

 

ーーーお休みの日は何をされてますか?

木村 寝起きからジャックダニエルを飲み倒す、ろくでなしに成り下がります。ジャックダニエルを飲みながら長万部温泉を堪能する日を楽しみに毎日頑張ってます。

木村店長の血液、ジャックダニエル

ーーー「それ行け!木村店長」のブログが非常にユニークで面白いです。アクセス数も非常に多いと思われますが、ブログはいつからどのような目的で始められたのですか?また、そのネタの源泉はどこからですか?

 

木村 一番最初に記事を上げたのは2010年5月19日。ブログを始めたきっかけは、自分の言う事を全く聞かない木村店長を見かねた社長が教育係を依頼した、今や日本のトップブロガー、札幌のビーチクルーザーショップオーナー13ROCKさんに勧められて始めました。

このブログは「木村店長」で検索1位を誇るなど、長万部のSEO力の高さを物語っている。
このブログは「木村店長」で検索1位を誇るなど、長万部のSEO力の高さを物語っている。

ブログを書くに当たっては13ROCKさんに教えられた、「くだらない事8割で読んでくれてる人の興味を引いて、仕事のこと2割で本当に伝えたいこと」を書くように心掛けてます。また、写真もきれいで文章にも興味が湧く良いブログから、全く面白くも無いブログまで見て、業務日誌や疲れ自慢・寝不足自慢のクサレブログにならないよう5W1Hを心がけて書いてます。

ブログの目的は、既存顧客の皆様の維持・向上ではなく、「新規顧客の獲得」。より多くの皆様に最高のホルモンの存在を知って頂く事が目標です。

今から学力や知識を身に付けようとしても元々頭が悪いので、限界があります。潰れる会社からこれから伸びる会社まで見てきた中小企業診断士の先生に教わった

「普通の奴には普通の結果しか出せないけど、まともじゃない奴はまともじゃない結果を出すことが出来る。」

という言葉を信じて、他の人には無いような思考回路をもつようにしています。きっと面白いことは、その辺にいくらでもあるし、なければ自分からやればいい。

13ROCKさんのキャッチフレーズは、

「楽しいことやってます。13ROCK」。

僕の親友のポストガールは、自信満々に木村店長に言った

「私はどんな田舎でもどんな地獄でも楽しみきる自信が有る」。

楽しむのは能力。それを「楽しくない」とぼやくのは無能な証拠です。

 

ーーー木村さんの野望や夢を教えてください。

木村 「サンミート木村」という名前を町外の一人でも多く知らしめていきたいです。僕は、サンミート木村としてこの町に寄与できるだけの力は持っていませんが、ただ、これからもサンミート木村を目的地に町外から来てくれる人を一人でも呼ぶ事が出来たら嬉しい。

夢は、肉屋をやっている以上、見る夢はどうしても焼肉屋。雑で薄汚い感じの味噌ホルモンをメインにした焼肉屋をやりたいです。どんな時でも社内は全員笑って仕事している、誰にも邪魔されない会社でありたい。

僕には後継ぎがいないので、将来「お願いです!継がせて下さい!」って若い人が来るような店にしたい。そして、会長職に居座って好きなことしながらホルモン切ったり、自分が建てた薄汚いホルモン屋を手伝いながら、のうのうと生活したいですね。

 

ーーー現在の長万部は、美容室Noirの寛さんや木村店長を筆頭に、30代の方の活躍がとても目覚ましいものです。この点について、木村店長のお考えをお聞かせいただけないでしょうか?

木村 きっと「僕ら世代の人」と「親の世代の先輩」と意見がぶつかる事があると思います。今ではお互いを尊重し合っている木村店長と社長も、目を合わせるのも嫌な時期がありました。

よく「大人になったね。」とか言われますが、大人になったつもりは全くなく、もし今、あの頃に戻って同じ言動を取られたら、当時より本腰入れて反抗していただろうし、ケンカの内容ももっとハードなものだろうと思う。

「親子の仲が最悪だった」というBOTAマスが教えてくれたのは、「お互いが歩み寄れるタイミングが必ず来る。」って事。

僕の場合は、社長が自分の体の衰えを認めざるを得なかった時と、木村店長が「仕事も従業員もぶん投げて沖縄に飛んだり、時には自殺未遂までしてみせる最高の反面教師」に出会って、「こんな奴だけにはなりたくない」と思った事が重なったのがタイミングでした。

ものさえあればお金に変わったバブルの時代を生きた方と、世界同時不況を生き抜かなければならない僕らが同じ考えなわけはない。

だけど、世代は違ってもかっこいい生き方だと思える先輩もたくさんいるし、油断してると敬語で話しそうになる10代の人もいる。

自衛隊の新隊員の頃、銃剣道の先輩に「成長は今までの自分を壊すことから始まる。色んな奴の良いと思ったところを吸収して自分のスタイルを作っていけ。」って教わったのをいまだに思い出すことがよくあるけど、向上心のある同世代同士、触発し合えたら嬉しいと思う。

 

ーーー最後に、長万部の若者へメッセージをお願いします。

木村 長万部には一見、何も無い田舎に見えるけど、楽しい事も美味しい物を作る天才も沢山居る。確かに不便なことは沢山あるし、不満も山ほどあるかもしれない。

だけど、不満の無い町なんて何処にも無いだろうし、不便だからアイディアも湧く。楽しむ能力が有るか無いか。この町に不満を抱えて出て行った人もいるだろう。そいつはきっと逃亡先でもうまくいかない時には、決まってその町や周りの人間のせいにしているはず。

僕はそんな奴にはなりたくないし、この町でできることはまだまだあるから毎日楽しくて仕方がない。昔は漂流物まみれで、きったなくて仕方がない長万部の浜も、流木の格好良さに気が付いた今となっては、宝の山さ。

つまんない町なんじゃない。つまんないのはお前なんだよ。つまんないなら、見方を変えてこの町を楽しみ切ってみようぜ。

 

【編集後記】

木村店長が運営するブログ「それ行け!!木村店長!!」の2013年08月29日付けの記事に「肉の日を終えて。」というタイトルのブログがある。

「肉の日を終えて。」

13ROCKさんの提案で肉の日イベントをやってみた本日。一子相伝チャーシュー炊きながら、楽しみに取っておいた冷めきったコテコテホルモン焼き食いつつ、沢山の収穫があった一日を振り返った。
木村店長がまだ味噌ホルモンを学校帰りのおやつにしていた幼少の頃、社長と専務がフライドチキンを揚げていた場所で、社長と専務が作り上げた味噌ホルモンを愛してやまない木村店長が最高の状態で提供して喜んでもらった。
どこにも負けないここにしかないホルモンを生み出した父と母。
いつも愛ある御指導下さる先輩。
販売開始前から、注文を取りまとめて沢山ご注文下さった親友始め、駆けつけてくれた沢山の親友。
皆さん、本当に有難う御座いました。
木村店長、完全に生かされてます。

例えこれからどんな成果を上げようが、親が築いた礎の上で生きるただの末っ子。元自衛官のど素人が、この店の一時代を築いている。なんて偉そうな事は微塵も思わない。これからも謙虚に頑張ります。
これからも木村店長を何卒、宜しくお願い致します。

醤油ホルモンの商品開発のブレークスルーポイントについて伺ったとき、「醤油ホルモン商品化に本気で手伝ってくれる人を見つけた時」といただいた言葉が非常に印象的だった。前述のブログ記事からも伝わってくる木村店長の物事に熱く取り組む姿勢、謙虚な姿が、物事を包み隠さないオープンさが、人望を集めている理由なのかもしれない。

戦後初の独立系生命保険会社を立ち上げたライフネット生命代表取締役社長兼COO岩瀬大輔氏は、「どんな仕事も5割以上は人間関係」とも語る。(プレジデントの記事よりhttp://president.jp/articles/-/10750?page=3)。どんなシゴトにも人間関係は深く関わってくるものだ。

独りで完結できるシゴトというものはない。木村店長のシゴトの姿勢からも、この点の理解を促進させてくれると思う。

最後のコーナーとして通例となった「長万部に住む若者へ」にて、今回はこれまでとは変わった切り口でメッセージをいただけた。心の隅をつつかれてしまうような、でも肩を押してくれるような、そんなメッセージだと思った。

長万部町は人口6000人足らず。かつては1学年3クラスあった学校も、いまや1クラスで間に合う人数に。祭りの出店は年々減少。L字に広がっていた出店も、いまは郵便局のある通りに収まる範囲に。遊び場も減ってゆく。中山、村田がなく、おもちゃが買えない町に。カラオケは1軒。遊ぶ選択肢がない町。あるのは大・中・小のバリエーションに富み、町内の至る所に建設された子供の声が聞こえない公園だ。

でも、絶望なんかすることはない。この町にはポテンシャルがある。

ここに引用したい。

「つまんないなら、見方を変えてこの町を楽しみ切ってみようぜ。」

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【長万部町出身者インタビュー】村松修平「どうせやるなら最高の指導者のもとで、効率的に勉強したかった」


この記事は、はてなブログにて2014年5月より掲載していた「リマンベのシゴト論」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。中高生のお子さんをもつ保護者の方、長万部の学校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい内容となっています。

> 「リマンベの仕事論。」の全記事を見る

【プロフィール】
村松修平
1988年生まれ。いずみ保育園を経て、長万部小学校、長万部中学校へ進学。高校からは地元を離れ、陸上競技の名門、札幌国際情報へ進学。1浪の後、慶應義塾大学に進学。在学中には英エジンバラ大での1年間の留学を経験。同大を卒業後、東京の大手総合商社に勤務。

1.高校時代「伸び悩む部活の成績。信じることができなかった部活の顧問」

Track & Field Competition @ National Olympic Stadium @ Sendagaya
Track & Field Competition @ National Olympic Stadium @ Sendagaya / *_*

品田直宏という世界ジュニア優勝者(※)をみて、ここにしようって決めました。

※品田直宏(札国際情報高)カナダ世界ユース大会走幅跳優勝(7m87)。

その高校は北海道で一番の顧問が在籍されていて、国体の北海道ナンバーワン選手を育てているような凄い指導者がいるところです。…でも、当時は全然信じてませんでした。中学時代の陸上の顧問(愛称「イトケン」)を、とても信じてたんですね。

イトケンからは、練習メニューについてはとくにいわれてなくて。精神論でやるというか。だから、いつも自己流でやっていました。(飛び方、走り方等の)技術的なことは自分で調べて練習していました。

そのようなこともあり、高校の顧問の指導方法に対して「これをやって何の意味があるの?」や「これ意味ないな」「その練習、めんどうだな」と思う日々で。練習方法がイヤで、飛び方について色々と指導されたんですが、自分なりのやり方を変えたくなかったという気持ちがありました。

それでも一応全部こなしたんです。言われたことは全部やったけど…熱が入ってなかったんでしょうね。結果として成績が伸びなく、目標だったインターハイには行けませんでした。一方、顧問の指導方法を信じてやってた人は、皆、インターハイでメダルを獲っていたんです。高校から陸上を始めたにも関わらず、インターハイ優勝という実績を残した一つ下の後輩がいるくらい。

そこで確信しました。信じてやることの大切さを。「じぶんなりの戦い方」っていうんですかね。高校時代、インターハイに行けないと確定した時、顧問にこう言われたんです。「陸上で負けたんなら、人生で勝ち組になれ」。そのとき、自分は人生の勝ち組といったら「ビジネス」くらいしか浮かばなかったので、「ビジネスで1番になろう」と決めました。

2.大学受験もう一度、最高の指導者のもとで。

大学受験では、筑波大学の体育学科や、早稲田大学のスポーツ科学、あとは慶應義塾大学などを受けました。…でも、全て落ちてしまいました。だけど、最後の最後のというところで、青山学院大学は合格したんです。

青学の合格発表のとき、母親は大喜びでした。しかし、父は違っていて。「慶應の進学先」「青学の進学先」を印刷した紙を、無言で僕に差し出してきたんです。

「これを見て考えなさい」ということなんだな、と汲み取りました。

父はいつも僕に向かって「やるならナンバーワンを目指せ。サッカーならW杯、陸上ならオリンピック。勉強なら東大早慶だ!」と言っていました。つまり、「慶應に行ってほしいんだな。且つ浪人してもいいんだな」ということだったんです。

じゃあやってやろうじゃないか。「私大ナンバーワン」を目指してやる。そこで決意しました。それからは、東京で浪人生活を過ごすことにしました。高校時代は札幌に住んでいたので、普通は札幌のまま浪人生活を過ごすと思うんですが、勉学に集中できるよう友達がいない環境、最高に信じれられる塾講師のところで勉強したいので。

どうせやるなら最高の指導者のもとで、効率的に勉強したかった。陸上で学んだ、「信じること」ですね。最高の指導者を信じて、学ぼうと決めました。

3.浪人生活「最高の指導方法を信じてやった」

KOKUYO のツインリングノート
KOKUYO のツインリングノート / yto

最高の塾講師がいるゼミで、この方法で行くと決めてやりました。すると、夏にグッと偏差値が上がったんです。この方法で合ってたんだなと分かったので、その方法をストイックに続けました。浪人期間は人間らしくなかったかな笑。偏差値しか喜びがなくて。会話は3日に1度くらい。当時の友達は2人。どちらも浪人生という具合です。

僕は人と比べて、記憶力がなかったので、ひたすら頑張るしかありませんでした。1日に12時間の勉強を、毎日休まず続けました。朝7時半に起きて、9時から19時まで予備校で勉強。19時半に自宅に着いて。22時までご飯と入浴、あと筋トレ。22時から24時は、英語です。予備校でつかった長文を声に出して読み上げてました。

いざ就職して分かることなんですが、社会人になると人間力が問われるんですよね。そういうのを犠牲にして偏差値をおってたのはないな、と思いつつ、じぶんは不器用な人間だったから、あれしかなかったですね。

後悔はしていません。目標は達成できたので。その無理があったらから、いまがあるんです。就職活動も頑張れましたし。あれで落ちても後悔しなかったくらい勉強してました。参考書がぐっしゃぐしゃになるまで、徹底的にやりました。

ーーーそして、念願の慶応大に村松氏は合格した。

4.慶応義塾大学生活「日本トップレベルの頭脳に勝つには」

大学に入ってから陸上はムリだと思っていました。それで、何をしようと考えていたとき、高校の顧問に言われた「陸上で負けたなら、人生の勝ち組になれ」という言葉があったので、「陸上でダメなら、ビジネスしかない」と思い浮かび、経営と会計、金融を学ぶ研究会へ入ることとしました。

そこでは毎日みんなでビジネスアイデアを考えてたり、フレームワークやディスカッション、ファシリテーションなどを勉強していましたが、その研究会のメンバーは皆、かなり頭が良くて本当に驚きました。株をやってるし、ビジネスの本を読んでるし。国語算数地理社会とか、そんなレベルじゃないんです。いきなり住む世界が違うところに来たな、と思いました。この人たちにじゃ勝てないなと。

それで、彼らにはない「別の強み」が欲しくて考えてみました。すると、「彼らは頭は良いけど、グローバル(な人材)ではない」ということに気づいて。だから、自分は英語を極めてグローバル人材になろうと、英語をやろうと決めました。彼らに負けない英語を。そこから、ひらすら英語を学ぶことにしました。

大学1年の7月頃には、思い立って短期留学に申し込むことにしたんです。募集の1週間前でした。3歳からこつこつ貯金をしていたお年玉をつかって、カナダで1ヶ月の海外生活を過ごしました。

5.海外留学「次元が違う世界トップレベルの頭脳」

カナダの語学学校での経験

1ヶ月、カナダに留学しました。語学学校の生徒の2~3割が日本人と多くて、何度か誘われることがあったんですが、日本語で話しかけられても「英語」で返してました。無愛想に断わりつづけてましたね。

なぜかストイックになってましたよ。日本人とは絡まず、ずっと同じ語学学校に通っていた韓国人と一緒にいました。一ヶ月間、英語しか使わない経験が大きかったですね。帰国後にTOEICを受けてみたら、スコアは670から850に上がりました。それで、英語はまだまだ喋ることはできないけど、「まあまあ英語はできたな」「馴れることができたな」と思いました。

ケンブリッジ大学でのサマースクールの経験

大学2年の8月には、ケンブリッジに行ったんですが、さらにビックリしました。世界トップレベルの大学とあって、頭の良さは慶応大とは比べものになりませんでしたね。歴史学を専攻してるのに、司法試験を合格してるような強者がいるんです。22歳くらいの年齢で、ですよ。他には「俺はNASAで働こうと思ってるんだ」ということを普通に話すような次元の。

「これが世界か、これはどう考えても勝てないな」と思いましたね。授業での議論のスタイルにも衝撃を受けました。深いんです。意見が深い。話がうまい。表現が上手。歴史を専攻している学生がいたんですが、様々な観点から意見を言うんです。「ヒストリーの観点では…、ポリティカルでは…、エコノミーでは…」というように。

自分が専攻としているマーケティングについての知識も豊富で、自分の専門内でも負けるんです。「マジ、ムリ」ですよ。声の大きさでも勝てませんでしたね。

この世界トップレベルの環境にいて、こう考えるようになったんです。「彼らに勝たないまでも、彼らみたいな力が欲しい。彼らと同じ環境にいよう、近づこう、学ぼう」と。そういうきっかけがあり、1年間エジンバラ大学に留学することにしました。

エジンバラ大学での経験

Old College Quadrangle, Edinburgh University
Old College Quadrangle, Edinburgh University / dun_deagh

ケンブリッジのときはは日本人向けにアレンジされた講義だったんですが、エジンバラではエジンバラ向けの講義です。講師からフラットな立場で教わるんですが、何と言ってるのか全然分からないし、早いんです。

しかも世界ランク16位の大学とあって、脳みそが違いました。だから、「俺が発言したところで議論が発展しないのでは?喋るスピードが遅いからリズムを止めてしまうのでは?」と躊躇することもありました。

でも、せっかく留学したのに何にも喋らないでいっても意味はなく、「なにしにきたの?」となります。慶應で決めた「グローバル人材」になるために、何か発揮しようと考えました。脳みそで勝てないなら、みんなが知らないこと発言しようと、日本のビジネスのケースを紹介をすることにしました。「教科書にはこのように書いてるけど、実際はトヨタではーーー」というようにです。

自分にしか出せないこと、論破とかはできないけど、アイデアを提供するとか、見方ですね。これなら俺でも違いが出せるなと思いました。今いる環境のなかでどう勝つか、どう違いを出していくかを考えた結果です。

6.これまでの経歴を振り返って

慶應のときもそうでしたが、「正面突破で勝てないなら、俺はこういく」と考えるようにしてましたね。同じ土俵では勝てないけど、この土俵なら勝てる、というものを。

勝てる土俵ってどこだろうって、常に問題意識をもってました。「どうしようどうしよう」って。すると、何かのきっかけでポーンと解決策を浮かぶんです。分かんなくてもいいから、クエスチョンを持つことですよね。悩んでないこと自体が、問題なのかもしれませんね。悩むことも、いいんじゃないでしょうか。

慶應で頭のいい連中に出会って、そこで違いを見つけようとして「英語」に出会ってからは本当に変わりました。最終的に世界から会社を選べるくらい、選択肢が広がったんです。

自分よりも強いやつらばかりの環境にいたら、自分のなかの常識が一つ上に上がっていくんです。一つ上に行くと、視界がバっと広がって、そしてまた何か勝てる方法を見つけて頑張ってまた一つ上へ。やりたいことが決まっているなら、その専門を極めるのもいいけど、やりたいことが決まってないなら、いい大学に入れば、機会は広がります。

自分は、いろんな人から言われた言葉を、よく覚えているんです。

中学の部活の顧問イトケンから「絶対言い訳すんな」
中学の国語教師からは「簡単な道と厳しい道で迷ったら、厳しい道をいけ」
高校の部活顧問からは「陸上で負けたんなら、人生で勝ち組になれ」
母からは「自分に厳しく、人には優しく」
そして、父からは「どうせやるなら1番になれ」

いま振り返ってみたら、ちゃんとこれらのことを守ってこれたから、いまの自分があるんだなと思いました。どれもシンプルな言葉ですけど、今となれば深さが分かりますね。

ーーー長万部の学生へのメッセージです。「10代のうちにやっておいたほうがいいこと」はありますか?
うーん、…なんだろう。「外に出てほしい」かな。

ーーー自分の殻、限界、常識、世界観のあらゆる「外」へ。成長するために、向上するために、あらゆる「外」へ。いつも自分よりも強い人たちがいる環境へ立ち向かった。その中で違いを出して「勝てる方法」を探してきた。自分を外へ。成長するために「外」へ。村松氏は、シンプルにこう言っていた。

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