「つまんない町なんじゃない。つまんないのはお前なんだよ」木村充(サンミート木村店長)インタビュー

投稿者: remanbe

remanbe(リマンベ)は、デジタル時代の地方創生のモデルをつくりあげる、北海道長万部(おしゃまんべ)町のローカルメディアです。


この記事は、はてなブログにて2014年5月より、長万部町出身者を対象にした連載「リマンベのシゴト論。」を加筆修正したものです。

もうすぐ卒業シーズンということで、リマンベ編集部から地元の田舎に住む中高生のみなさんに贈ります。今後の人生の役に立ち、心にひっかかる言葉がたくさん散りばめられています。中高生のお子さんをもつ親世代の方、そして長万部の未来を支える子供達の教育に熱心に励む長万部の学校の先生方にも、ぜひ読んでいただきたい記事となっています。

今回は、シリーズのなかでもっとも反響のあった木村店長のインタビュー記事です。

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【プロフィール】
木村充(精肉店店長)
昭和50年10月17日生まれ。マリア幼稚園、長万部小学校、長万部中学校、長万部高校卒業。平成6年、自衛隊に入隊。平成20年、(有)サン・ミート木村に入社。現在は店長職として同店の発展に取り組む。

【サンミート木村とは】

創業昭和58年の精肉店。独自の製法やその美味しさからメディアに取り上げられることが多く、お客が町内・町外、年代も問わず、函館から札幌を中心に各地から訪れる長万部の名店。

 

ーーー前職は自衛隊だったそうですが、自衛隊を志された理由は何でしょうか?

木村 僕の親が、子供が自分のもとを巣立つ度に不安に駆られ、夫婦げんかが絶えない生活をしているのを見て、親の不安を軽減できる衣食住の心配のいらない自衛隊という職を選びました。

と、親孝行風に格好良く言いますけど、モテそうな見た目の良い美容師とか洋服屋さんとかの仕事がしたかったけど、親に反対されて、他に自分のやりたいことが全く見つからずに親の言いなりで自衛隊に入隊しただけです。

 

ーーー自衛隊のお仕事をされていた中での、成功体験や失敗体験を教えてください。


木村 僕は正直、問題ばかり起こす「中隊の癌」と呼ばれた、いない方が良い自衛官でした。時間や規律に厳正な自衛隊の中で、門限に遅れたり不正に外出したり、度々交通事故を起こしたりと、昇任も最後尾が決定していたほど部隊に迷惑を掛けていました。

そんな僕も部隊の役に立ちたくて、全く成果は残せなかったものの、他の隊員よりも好奇心や熱意が強く、時間やお金もかけていた「銃剣道」という武道の技術を活かして、格闘指導官の立場を目指しておりました。

リマンベ補足)
自衛隊格闘術(じえいたいかくとうじゅつ)とは、自衛官の白兵戦・徒手格闘戦の戦技として編み出された格闘術。徒手格闘、銃剣格闘、短剣格闘からなり、銃剣術(じゅうけんじゅつ)とは、白兵戦・近接戦闘において、先端に銃剣を装着(着剣)した小銃を武器にして敵を殺傷する武術。銃剣道(じゅうけんどう)は、旧日本軍において訓練されていた銃剣術を、太平洋戦争後に競技武道化したもの。(wikipediaより)

体育学校という施設で行われる教育の参加を熱望し続けること6年目でやっと格闘指導官の資格を取得することが出来ました。外出禁止処分を何度もくらって年間のほとんどを駐屯地内で過ごした木村3曹も、微力ながらも部隊の格闘技術の向上に役立てることが出来たという、奇跡の成功体験です。

ですが、徒手格闘・銃剣格闘から、より実践的な新格闘に変わる、一人でも格闘指導官が必要な大事なという最悪なタイミングで退職いたしました。

リマンベ補足)
2008年(平成20年)に、自衛隊内では「新格闘」と呼ばれる新たな内容の格闘術に変更された。

 

ーーー現在はサンミート木村の店長としてご活躍されていますが、いつから店長職になられましたか?

木村 入社して1年程たった頃、名刺を作る時、肩書が無いと格好付かないという理由だけで店長の役職を頂きました。

 

ーーー現在のサンミート木村のお仕事での、成功体験や失敗体験を教えてください。

木村 木村店長の今までで一番の快進撃は、醤油ホルモンを完成させた事だと自負しておりましたが、札幌三越さんや函館丸井今井さんの催事で試食を配って販売した結果、醤油ホルモンが最も売れた瞬間に、醤油ホルモンを商品化したと名乗る輩が3人にまで増えた怪奇現象が起きました。

きたキッチンさんに置いてもらうことを目標とするも数字の計算力に乏しく、見積書の書き方も全く分からないながら果敢に見積書を作成しセールスに向うも、気が付かないうちに高額な見積書が出来上がっていたため、見事撃沈。

後日、先輩に電話で相談しながら言われるがまま再び見積書を作成し、再挑戦した結果、前回より更に高額な見積書を提出して、自分の知らないところまで噂が広がっていた伝説の持ち主です。

 

ーーーその醤油ホルモンの商品化に至るまでの苦難やブレイクスルーポイント(壁を突破した瞬間)は何でしょうか?

木村 僕がサンミートに就職して最初に作った醤油ホルモンは、他の人間に指示されるがまま動いて出来た醤油ホルモンのため、自分が作ったという自覚は全くなかった。

なにぶん料理経験の無い素人なもので、ホルモンに味付けをするタレを作る事なんて出来るわけも無く、かといって自分なりの商品を開発しなければ自分が居る意味も無い。

今の醤油ホルモンを作った時、「ある調味料をベースに作ってみたらどうか」とサンミート木村の専務をはじめ、他の人間からも軽いアドバイスがあった。

そのアドバイスをした事だけで醤油ホルモンが勝手に出来上がったと勘違いしたことが、自分が商品開発したと勘違いしている輩が居る原因なのかも知れない。確かにその調味料をベースに試作品を作って、試食会を何度も繰り返した。

試食会の度にサンプルを作ってブラッシュアップし、更にその結果をもとにサンプルを最低4つは作って試食会を繰り返した。

その試食会は、親戚の焼肉やバイクの友達のキャンプ、会社内と色んな場所で行われて、色んな人が来た。ホルモンをただ食べるだけの人や、何を食べても美味しいというだけ人。口に入れてから一瞬で吐き出して、何も言わずに背中を向けてどこかに行った社長。

そんな中にも、信頼できる意見を真剣に考えてくれる人が何人も居た。醤油ホルモンの商品開発のブレークスルーポイントは「醤油ホルモン商品化に本気で手伝ってくれる人を見つけた時」かもしれない。

 

ーーーお休みの日は何をされてますか?

木村 寝起きからジャックダニエルを飲み倒す、ろくでなしに成り下がります。ジャックダニエルを飲みながら長万部温泉を堪能する日を楽しみに毎日頑張ってます。

木村店長の血液、ジャックダニエル

ーーー「それ行け!木村店長」のブログが非常にユニークで面白いです。アクセス数も非常に多いと思われますが、ブログはいつからどのような目的で始められたのですか?また、そのネタの源泉はどこからですか?

 

木村 一番最初に記事を上げたのは2010年5月19日。ブログを始めたきっかけは、自分の言う事を全く聞かない木村店長を見かねた社長が教育係を依頼した、今や日本のトップブロガー、札幌のビーチクルーザーショップオーナー13ROCKさんに勧められて始めました。

このブログは「木村店長」で検索1位を誇るなど、長万部のSEO力の高さを物語っている。
このブログは「木村店長」で検索1位を誇るなど、長万部のSEO力の高さを物語っている。

ブログを書くに当たっては13ROCKさんに教えられた、「くだらない事8割で読んでくれてる人の興味を引いて、仕事のこと2割で本当に伝えたいこと」を書くように心掛けてます。また、写真もきれいで文章にも興味が湧く良いブログから、全く面白くも無いブログまで見て、業務日誌や疲れ自慢・寝不足自慢のクサレブログにならないよう5W1Hを心がけて書いてます。

ブログの目的は、既存顧客の皆様の維持・向上ではなく、「新規顧客の獲得」。より多くの皆様に最高のホルモンの存在を知って頂く事が目標です。

今から学力や知識を身に付けようとしても元々頭が悪いので、限界があります。潰れる会社からこれから伸びる会社まで見てきた中小企業診断士の先生に教わった

「普通の奴には普通の結果しか出せないけど、まともじゃない奴はまともじゃない結果を出すことが出来る。」

という言葉を信じて、他の人には無いような思考回路をもつようにしています。きっと面白いことは、その辺にいくらでもあるし、なければ自分からやればいい

13ROCKさんのキャッチフレーズは、

「楽しいことやってます。13ROCK」。

僕の親友のポストガールは、自信満々に木村店長に言った

「私はどんな田舎でもどんな地獄でも楽しみきる自信が有る」。

楽しむのは能力。それを「楽しくない」とぼやくのは無能な証拠です。

 

ーーー木村さんの野望や夢を教えてください。

木村 「サンミート木村」という名前を町外の一人でも多く知らしめていきたいです。僕は、サンミート木村としてこの町に寄与できるだけの力は持っていませんが、ただ、これからもサンミート木村を目的地に町外から来てくれる人を一人でも呼ぶ事が出来たら嬉しい。

夢は、肉屋をやっている以上、見る夢はどうしても焼肉屋。雑で薄汚い感じの味噌ホルモンをメインにした焼肉屋をやりたいです。どんな時でも社内は全員笑って仕事している、誰にも邪魔されない会社でありたい。

僕には後継ぎがいないので、将来「お願いです!継がせて下さい!」って若い人が来るような店にしたい。そして、会長職に居座って好きなことしながらホルモン切ったり、自分が建てた薄汚いホルモン屋を手伝いながら、のうのうと生活したいですね。

 

ーーー現在の長万部は、美容室Noirの寛さんや木村店長を筆頭に、30代の方の活躍がとても目覚ましいものです。この点について、木村店長のお考えをお聞かせいただけないでしょうか?

木村 きっと「僕ら世代の人」と「親の世代の先輩」と意見がぶつかる事があると思います。今ではお互いを尊重し合っている木村店長と社長も、目を合わせるのも嫌な時期がありました。

よく「大人になったね。」とか言われますが、大人になったつもりは全くなく、もし今、あの頃に戻って同じ言動を取られたら、当時より本腰入れて反抗していただろうし、ケンカの内容ももっとハードなものだろうと思う。

「親子の仲が最悪だった」というBOTAマスが教えてくれたのは、「お互いが歩み寄れるタイミングが必ず来る。」って事。

僕の場合は、社長が自分の体の衰えを認めざるを得なかった時と、木村店長が「仕事も従業員もぶん投げて沖縄に飛んだり、時には自殺未遂までしてみせる最高の反面教師」に出会って、「こんな奴だけにはなりたくない」と思った事が重なったのがタイミングでした。

ものさえあればお金に変わったバブルの時代を生きた方と、世界同時不況を生き抜かなければならない僕らが同じ考えなわけはない。

だけど、世代は違ってもかっこいい生き方だと思える先輩もたくさんいるし、油断してると敬語で話しそうになる10代の人もいる

自衛隊の新隊員の頃、銃剣道の先輩に「成長は今までの自分を壊すことから始まる。色んな奴の良いと思ったところを吸収して自分のスタイルを作っていけ。」って教わったのをいまだに思い出すことがよくあるけど、向上心のある同世代同士、触発し合えたら嬉しいと思う。

 

ーーー最後に、長万部の若者へメッセージをお願いします。

木村 長万部には一見、何も無い田舎に見えるけど、楽しい事も美味しい物を作る天才も沢山居る。確かに不便なことは沢山あるし、不満も山ほどあるかもしれない。

だけど、不満の無い町なんて何処にも無いだろうし、不便だからアイディアも湧く。楽しむ能力が有るか無いか。この町に不満を抱えて出て行った人もいるだろう。そいつはきっと逃亡先でもうまくいかない時には、決まってその町や周りの人間のせいにしているはず。

僕はそんな奴にはなりたくないし、この町でできることはまだまだあるから毎日楽しくて仕方がない。昔は漂流物まみれで、きったなくて仕方がない長万部の浜も、流木の格好良さに気が付いた今となっては、宝の山さ

つまんない町なんじゃない。つまんないのはお前なんだよ。つまんないなら、見方を変えてこの町を楽しみ切ってみようぜ。

 

【編集後記】

木村店長が運営するブログ「それ行け!!木村店長!!」の2013年08月29日付けの記事に「肉の日を終えて。」というタイトルのブログがある。

「肉の日を終えて。」

13ROCKさんの提案で肉の日イベントをやってみた本日。一子相伝チャーシュー炊きながら、楽しみに取っておいた冷めきったコテコテホルモン焼き食いつつ、沢山の収穫があった一日を振り返った。
木村店長がまだ味噌ホルモンを学校帰りのおやつにしていた幼少の頃、社長と専務がフライドチキンを揚げていた場所で、社長と専務が作り上げた味噌ホルモンを愛してやまない木村店長が最高の状態で提供して喜んでもらった。
どこにも負けないここにしかないホルモンを生み出した父と母。
いつも愛ある御指導下さる先輩。
販売開始前から、注文を取りまとめて沢山ご注文下さった親友始め、駆けつけてくれた沢山の親友。
皆さん、本当に有難う御座いました。
木村店長、完全に生かされてます。

例えこれからどんな成果を上げようが、親が築いた礎の上で生きるただの末っ子。元自衛官のど素人が、この店の一時代を築いている。なんて偉そうな事は微塵も思わない。これからも謙虚に頑張ります。
これからも木村店長を何卒、宜しくお願い致します。

醤油ホルモンの商品開発のブレークスルーポイントについて伺ったとき、「醤油ホルモン商品化に本気で手伝ってくれる人を見つけた時」といただいた言葉が非常に印象的だった。前述のブログ記事からも伝わってくる木村店長の物事に熱く取り組む姿勢、謙虚な姿が、物事を包み隠さないオープンさが、人望を集めている理由なのかもしれない。

戦後初の独立系生命保険会社を立ち上げたライフネット生命代表取締役社長兼COO岩瀬大輔氏は、「どんな仕事も5割以上は人間関係」とも語る。(プレジデントの記事よりhttp://president.jp/articles/-/10750?page=3)。どんなシゴトにも人間関係は深く関わってくるものだ。

独りで完結できるシゴトというものはない。木村店長のシゴトの姿勢からも、この点の理解を促進させてくれると思う。

最後のコーナーとして通例となった「長万部に住む若者へ」にて、今回はこれまでとは変わった切り口でメッセージをいただけた。心の隅をつつかれてしまうような、でも肩を押してくれるような、そんなメッセージだと思った。

長万部町は人口6000人足らず。かつては1学年3クラスあった学校も、いまや1クラスで間に合う人数に。祭りの出店は年々減少。L字に広がっていた出店も、いまは郵便局のある通りに収まる範囲に。遊び場も減ってゆく。中山、村田がなく、おもちゃが買えない町に。カラオケは1軒。遊ぶ選択肢がない町。あるのは大・中・小のバリエーションに富み、町内の至る所に建設された子供の声が聞こえない公園だ。

でも、絶望なんかすることはない。この町にはポテンシャルがある。

ここに引用したい。

「つまんないなら、見方を変えてこの町を楽しみ切ってみようぜ。」

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